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三文オペレッタ

作者: 林檎

 


「クレア、君との婚約は破棄することにした!」



 突然言われた言葉に、クレアは驚いてグラスを落っことしそうになった。

 慌ててステムを両手で握り、事なきを得る。


「……まぁ、驚いた。突然何を仰るの、ユーステス様」

「言った通りだ、君との婚約は破棄させてもらう」

「まぁ。もう一度仰らなくても、あんなに大きな声だったんですもの、隣の席の方にも聞こえていましてよ」

 ちらりとクレアが視線を流すと、隣のテーブルで聞き耳を立てていた男女の客が、慌てて食事を楽しんでいるフリをする。

 彼女は内心で溜息をついて、向かいの席に座るユーステスを睨み、柳眉を逆立てた。

「わたくしが問うたのは、突然、何故、婚約を破棄などとお寝坊さんのようなことを仰ったか、ですわ。きちんと言葉の意図を理解してくださいませ」


 ここは王都で人気のレストラン。

 低・中位貴族向けのこの店は、王城の貴賓専用食堂を模した造りになっていて、訪れた客を贅沢な気分にさせてくれる。

 しかも料理は王城に勝るとも劣らない美味だという評判なので、貴族であっても予約を取るのも難しいのだ。

 ユーステスの頼みで、伝手を使って今夜のテーブルを予約したクレアは、せっかく来店したのに、前菜の皿が来る前に不愉快なことを言い始めた婚約者を睨まずにはいられなかった。

 しかも用意するように言われた席は三席。

 この後誰かゲストが来るようなのだ。それまで乾杯は待とう、とクレアは提案したのに、ユーステスはさっさとワインを飲み始めた。

 祖父の命でなければ、このうだつの上がらない失礼な男とはこちらからすぐに婚約破棄してやりたいところをクレアはぐっと耐えていたというのに、その結果がこの仕打ちである。


「実は運命の番に出会ってしまったんだ!」

「まぁ」

 グラスをテーブルに置くと、その手で傍に畳んで置いてあった扇を広げ、クレアは口元を隠す。

 このあんぽんたんの“婚約者”は何を言いだすのやら。


 クレアやユーステスの暮らす、このドラム王国はドラゴン族が統治していて、人族や他の獣族も国民として暮らしてはいるが、圧倒的にドラゴン族の血を引く者の数が多い。

 今や純血のドラゴン族は王族と高位貴族にのみ残っている程度だが、長い歴史のある国なので市井にもドラゴン族との混血の民は多いのだ。


 そして、長命で強い生命力を誇るドラゴン族の伝説には、“運命の番”という存在がいる。

 相手は種族も性別も関係ない為、出会うことはドラゴン族の長い生涯であっても稀であり、けれど一目で会った瞬間に互いがそうだと分かるものなのだと言われていた。

 互いが互いのことしか考えられなくなるほど、強烈に引き寄せ合う、運命の相手。


 しかし現状ドラゴン族の純血種が王族周辺にしかいない以上、彼らは運命の番を求めるよりも王族として国にとって有益な婚姻による地盤固めの方を優先する為、当のドラゴン族自身はあまり頓着していない概念なのだとか。

 理屈も事情も捻じ伏せてしまう“運命の番”への抗えない欲求は、当然その身に流れる血が濃い方が強く、純血種にとっては少し迷惑なものらしいのだが。


 むしろお伽話めいたそんな言い伝えに夢を見るのが、ドラゴン族の血の混じる者達だ。

 伯爵令嬢であるクレアと、男爵令息であるユーステスも多少ドラゴン族の血は混じっているが、かなり薄まっていると言えるだろう。そして、国民には大なり小なりそういった立場の者が多い。

 結果、“運命”などというロマンチックな響きに期待を寄せ、軽々しくその単語を使い、若い恋の一つのスパイスとして用いられることが昨今の風潮だった。


 このような経緯から、高位貴族でもないユーステスに“運命の番”を見つけた、などと言われても浮気の告白にしかクレアには聞こえないのだった。

 実際に“運命の番”に出会い、それを知覚したという可能性もゼロではないのだが、そもそもが長命のドラゴン族ですらその存在に出会うことは稀なのだから、ユーステスの場合は限りなくゼロに近い状態だろう。

 伝説は、滅多にお目にかかれないからこそ伝説であり、そう“度々”見られてはたまったものではない。


「……“運命の番”ですか……」

 嫌な言葉を聞いた。最近のクレアが聞きたくない単語ナンバーワンなのだ。

「ああ、瑕疵のない君には悪いと思っているが、出会ってしまった以上、俺は運命に抗うことが出来ない……!」

 何やら芝居がかった様子で話し始めた男を白けた目で見て、クレアは再びワイングラスを掴むと、ぐい、と中身を飲み干した。

 しばらくすると目敏く気付いた、背の高い店員がテーブルの上に載ったクーラーからボトルを抜き、それを麻のナプキンで包んでグラスにワインを注いでくれる。

 血のように赤いワインは、クレアの好みだ。

「それで、どうなさるおつもりですの?祖父からのユーステス様への融資はかなりの額になっていると思いますが」

 クレアの婚約者になってから、ユーステスはクレアの祖父から新しい商売を立ち上げる為の多額の金を融資してもらっていた。未だ回収の目途が立っているようには見えないが。

 孫の婚約者であればこそ、無利子・無担保で融資していたものの、婚約破棄となれば当然耳を揃えて返す必要があるだろう。

「そうだな。俺の事業の為に、クレアの祖父君にはかなり融通してもらっているが……だが、まぁ、仕方がないだろう?“運命の番”に出会ってしまったのだから」

 判で押したように繰り返される単語に、クレアはもはやうんざりとした表情を隠しもしない。


 ドラゴン族が治めるドラム国特有の古くからある悪法として、“運命の番”との関係を貫く場合、あらゆる超法規的措置が適用されるのだ。


 強すぎる呪いのようなものなので、妊娠中の妻を放って番の元に行ってしまった夫だとか、結婚式を明日に控えた花嫁が花婿に何も言わずに番と結ばれてしまっただとか。

 番に出会うことは稀とはいえ、長い歴史の過去を紐解けば、痴情の縺れ待ったなしの案件の枚挙に暇がない。

 その為、過去まだドラゴン族の純血種の数が多かった当時に出来た法であり、今となってはこのように悪用されることの多い、悪法となってしまっていた。

 何せ“運命の番”は互いが互いをそうと認識するものであり、他者からは肯定も出来ないが否定も出来ないのだ。

 つまり、「“運命の番”に出会ってしまったので」、孫の婚約者だからという理由で融資してもらった金を返すことが出来なくても、罪には問われない。

 ゆえに、昨今の風潮を合わせて悪法、とクレアは断じている。勿論、そんな馬鹿な理由を持ち出して借金を踏み倒す馬鹿は滅多にいないが、非常に残念なことに目の前に一人いた。


「……法改正を進言しておかなくてはいけませんわねぇ」

 ほう、とクレアはピンク色の唇で忌々し気に溜息をつく。


 ぱっぱらぱーのユーステスのことだから、この後の展開もクレアにはまるで手に取るように分かる。分かることが悲しいぐらいだ。

「……分かりました。ただ当家への事情説明と釈明はご自分でなさってくださいませ」

「ああ、それが誠意というものだろうな」

 感じ入った様子で頷くユーステスに、クレアはもはや呆れた顔もしない。無表情だ。表情筋を動かす労力も惜しい。


 何が誠意か。

 誠意というのは、件の“運命の番”への欲求を撥ね退け、数年に渡って受けた融資という名の無駄金を全額返金し、結婚適齢期のクレアの美しい数年を無駄にしたことを地面に額を擦り付けて詫び、慰謝料を融資額以上に払った後に初めて口に出来る言葉の筈だ。

 何せ失った時間は戻らないのだから。


「それでクレア、婚約者ではなくなるとはいえ、君とは長年の家族ぐるみの友人だ」

「あら嫌ですわ、ユーステス様。わたくしは今この瞬間から、赤の他人の方が親しく感じるぐらいですのに」

 クレアが嫌味でもなく微笑んで言うと、自分の言葉に酔っているユーステスは彼女のその表情だけをくみ取ったようだった。3分前に言葉の意図を理解するようにアドバイスしたばかりなのに、残念なことだ。

「だから、俺の“運命の番”を紹介しておきたい」

「まぁ、なんていらぬ気遣いでしょう」

 結構です、とクレアが言う前に、素早くユーステスが手で示し、素早く一人の女性が二人のテーブルのすぐ傍に立った。

 予感的中である。

 三人目のゲストは、この女性なのだろう。


 ユーステスは席を立ち、その女性の背に手を添えて並んで立った。

「クレア、紹介するよ。キャシー・ビルだ」

「初めまして、クレア様。キャシーと申します」

 クレアはキャシーを一目見て、驚いた。

 何が、ってその勝ち誇ったような表情にだ。

 線の細いクレアとは対照的に、肉感的な体躯のキャシーはべったりとユーステスにくっついてものすごく勝ち誇った顔をしていた。


「…………初めまして、クレア・バーンズですわ」

 クレアは微笑ましい気持ちになって、自然に柔らかい笑顔を浮かべた。そのことに、キャシーは虚を衝かれたような顔をする。

 お互い、気持ちが顔に出すぎであった。

 あんぽんたんでぱっぱらぱーのユーステスを得て、キャシーは何をクレアに勝ち誇っているのか、とつい彼女は笑ってしまったのだ。

 商才も根性も気概もない男だが、バーンズ家で絶大な力を持つ祖父の命令での婚約であった為、結婚したら性根から叩き直してやろうと思っていたところが、手間が省けた。

 感謝の言葉をくれてやってもいいぐらいだ。


 逆に、キャシーはクレアの笑顔の意味が分からず戸惑った。

 ユーステスがベッドで寝物語に語ってくれた、彼の冴えない婚約者は、随分と不幸な女だった筈だ。このように突然現れたキャシーに男を取られてしまえば、どれほど抑えようとも悔しさがにじみ出て無様な姿を晒す筈なのに。


 とはいえ、キャシーもただの小娘ではない。態勢を整えて、クレアに向けてしおらしい表情を取り繕う。

「クレア様は、ユーステスと婚約を破棄したら醜聞になりますよね?本当にごめんなさい」

「あら、謝っていただくことなんて何もありませんわ」

 キャシーは、クレアがここでみっともなく取り乱したり、泣いてユーステスに縋ったりすることを想定していた。

 だが予想に反してにこやかにワインを飲み干し、長身の給仕にまた注いでもらっているクレアを、変人でも見るかのような目で見つめた。ユーステスがエスコートしているので、ワインを注いだ給仕はキャシーへの椅子を引かずにそのまま去って行く。

 それでなくともこの席を用意したのはクレアで、彼女に勧められなければキャシーは椅子に座る権利を持たない。


 ユーステスがクレアの婚約者のままならば、彼にも椅子を勧める権利はあったが、今は赤の他人以下の同じ場所にたまたまいるだけの人なのでその権利はなく、クレアとしては彼にも席を去って欲しい気持ちだ。

 だと言うのに、ユーステスが遅まきながら気の利いたフリをしてキャシーに椅子を引く。彼女も嬉しそうにそこに座ろうとしたので、クレアはすぃ、と手を掲げてそれを止めた。

「お待ちになって。もう紹介も済みましたし、お帰りになっていただいて構いませんわ」

「え……」

「クレア?」

 キャシーとユーステスは奇妙な顔をする。

「クレア……様、こそ、お帰りになりたい気分なんじゃないですか?」

 また予想と違ったのか、キャシーが変な顔をしてクレアに言う。出鼻を挫いた形になったので、二人は立ったままだ。

「あら、どうしてですの?ここのお料理はとても美味しいんですのよ?せっかく伝手を使って、犠牲を払って用意した席ですもの、堪能しなくては勿体ないわ」


 にっこりとクレアが微笑むと、キャシーはえ?とユーステスの方を見た。

「私の為にあなたが席を取ってくれたんじゃなかったの?」

「いや、まあ……どっちが取っても一緒だろう?」

 そこの甲斐性なしにこの店の席が用意出来るわけがない。半年先まで予約待ちなのだから、二年ぐらい待てば彼にも席が取れるかもしれないが。

「なぁ、クレア。せっかくだし三人で食事にしようじゃないか。君の言う通り、料理が余っては悪いし、堪能しなくちゃ勿体ないよ」

 取り成すように言ったユーステスの言葉に、キャシーが噛みつく。

「ちょっと私は嫌よ、プライドの高いクレアは怒って先に帰るだろうから、その後ゆっくりこの店の料理を食べよう、てあなた言ったじゃない!」

 何もかも口に出すのは得策とは言えない。


 クレアはキャシーを見て微笑み、ユーステスを見て目を細めた。

「大丈夫、わたくしのゲストがもういらしてますもの。健啖家のその方なら二人分のディナーぐらいぺろりと堪能なさいますわ」



「例え三人前でも、お前が望むなら平らげよう」



 背の高い男性がクレアの隣に立ち、身を屈めて彼女の頬にキスを落とす。

 先程まで彼女のグラスにワインを注いでいた給仕だ。今はタイを取り、ベストのボタンを開けてひどくラフな格好になっている。


 正餐ではなく街のレストランなので、服装としてはギリギリマナー違反ではないが、それでもだらしのない恰好であることは事実であり、クレアは顔を顰めた。

「……給仕の真似事はお止めになったの?」

「運命の番、とお前が俺を呼んだからな」

「呼んだつもりはありませんわ、話の流れでその単語を口にしただけですの」

 ツン、とクレアが顔を背けると、彼は快活に笑った。

「お前の運命の番とは、俺であり、すなわちお前がその単語を口にする時は、俺のことを呼んでいる、ということだ」

「またおかしな理屈を……しかも、わたくしがその単語を口にする前から貴方、このお店にいらしたわ」

「愛の力だな」

 しれっ、と男が言うと、クレアは形の良い柳眉を顰める。

「…………一方通行ですけれど」

「まぁそう言っていられるのも今の内だ」

 男は機嫌よく笑い、けれどそれがちっとも下品ではなかった。それから彼女の左隣の椅子を、長い指で指す。

「座っても?」

「きちんとタイを締めて、ボタンをお留めになってから、どうぞお掛けくださいな」

 クレアが許可を出すと、男が顔を顰めて外したばかりのボタンを留め直す。

 すると店員が滑るように近づいてきて、制服とは違うタイを差し出し、男の為に椅子を引く。当然店側とは話がついていたらしい。


 何事もなかったかのように、慣れた様子で椅子に座り、彼はナプキンを手に取る。

「そういえば我が番よ。こちらの二人は知り合いか?」

「いいえ、赤の他人ですわ」

 そこでようやく美しい男の登場に呆然としていたユーステスとキャシーの石化が解け、二人は騒ぎ出す。

 とても不思議なことに、先程まで男が給仕に扮していた際にはまるで彼は目立たなかったのだ。

 だが、一度彼が自身の気配を露にすると、見つめずにはいられないような求心力と魅力があった。

「ク、クレア!これはどういうことだ!?」

「そうよ、クレア様!ユーステスという人がいながら、あなた、浮気してたの!?」

 彼らが突然大声を上げたので、また他のテーブルからの視線が集まる。

「……知り合いのようだが?」

 男がほんの少し不快さを滲ませてクレアの方を向く。彼女は渋い顔をしたが、仕方なく紹介をすることにした。

「元婚約者で今は赤の他人のユーステス・フォード様と、その“運命の番”・キャシー・ビル嬢ですわ」

「ほう」

 続いて、クレアは男の方に掌を向ける。

「フォード様、ビル嬢。こちらは」

「クレアの運命の番、レジナルド・ヴィア・ドラムだ」

「……その自己紹介、なんとかなりませんの……」

「肩書を省き、必要なことだけを名乗るとこうなる」


 彼女の言葉を引き継ぎ、自ら名乗った男は、面白がるように彼女の顔を覗き込む。

 クレアとてこのような喜劇の舞台、他のテーブルの客のように聴衆としてならば手を叩いて楽しんだだろう。

 先程から“運命の番”という単語は大安売りのように連呼され、茶番もいいところだ。

 ドラム国民の一人として、また年頃の乙女の一人として、“運命の番”という単語はもっと、ロマンチックで崇高な使い方をして欲しかったものだ。だがそんな幻想はもはや捨てるべきなのだろう。

 何せ、


 そこでユーステスの悲鳴が上がる。

「レジナルド・ヴィア・ドラム……第二王子殿下……!?」

 そう。当のドラゴン族純血種の王子殿下が軽々しく口にして、率先して喜劇を提供しているのだから。


 王子が店内にいる、とのことで今まで温く観戦していた他の客達が慌てて立ち上がり、臣下の礼を取ろうとする。

 レジナルドは鷹揚に頷いて、彼らを手で制した。

「皆、今日はお忍びなので知らぬフリをしてくれ。食事の時間を邪魔して悪いな」

「……全然忍んでいらっしゃいませんわ」

 クレアは小さく愚痴を溢した。

「生まれながらに目立つ存在なのだ、許せ我が番よ」

「……今日は仕方ありませんわ。席が余ってしまいましたの、わたくしと一緒に食事をしてくださいます?殿下」

「愛するお前の願いならば何でもしよう」

 にこりとレジナルドは魅力的な笑顔を浮かべた。


 長命種の彼はクレアよりもずっと年上で、彼女のこういう強がりをとても愛おしく感じているのだ。突き放すような態度すら、子猫に引っかかれた愛らしさと捉えている。

「……殿下が何故クレアに……?」

 ユーステスの言葉に、レジナルドは首を傾ける。

「先程伝えたつもりだったのだがな。クレアは俺の運命の番だ。ずっと求婚していたのだが、当のクレアには婚約者がいるから、と断られていた」

「な!?」

 キャシーが驚きの声を上げて、レジナルドとクレアの顔を交互に見遣る。


 王子に求婚されて、しかもその理由が“運命の番”。それこそ恋物語にでもなりそうな話だ。

「運命の番なんだから、婚約なんて破棄して俺の妻になれと言ったのに」

「本能的な衝動を抑え込み、理性的な行動をしてこそ文明人というものですわ」

 クレアが真面目な顔で言うと、甘くとろけるような表情を浮かべてレジナルドは頷く。

「とか、憎たらしいことを言うのでな、お望み通り本能を抑え込んで待っていたというわけだ」

「……その割にはわたくしの周辺をうろうろしておられたご様子ですけれど……王子殿下はお暇なのですか?」

「まさか。目も回る程に忙しいところを、お前の為に時間を使って付き纏っていた」

「付き纏っていた自覚はおありなのね……」

 クレアは胡乱な眼差しをレジナルドに向けた。彼は、クレアと目が合うと微笑を浮かべる。

 見た目は彼女より少し年上ぐらいの、絶世の美形なのだ。ストーカーでなければ一目で恋に落ちても不思議ではない。

 残念ながら彼はストーカーなので、クレアは一目では恋に落ちないけれど。


「う、嘘だ!!」

 ユーステスが叫ぶが、可愛くないことを言いつつクレアの視線はレジナルドにばかり注がれている。

 それが面白くないのは、当のユーステスだ。彼は今日、この王都で人気の店でいつも彼を見下したような態度を取るクレアに屈辱を与え、その後キャシーと美酒で乾杯するつもりだったのだ。


 そもそも、ユーステスはクレアの祖父に頼み込まれて、彼女と婚約した。

 クレアの母は、今のユーステス同様、巷で体のいい口実として使われる“運命の番”という言い訳をして、バーンズ家で働いていた下男と共に駆け落ちしたのだ。

 まだクレアが幼い頃の出来事であり、それを知った祖父は大激怒。母親に容姿がよく似ていたクレアは、屋敷中の者から厳しい目を向けられた。父親は後継者の弟にばかり執心して、自分を見限った妻によく似たクレアには目もくれなかったのだという。

 祖父にあらゆることを厳しく教育され、良い成績を収めたとしても褒められることなく育ったクレアは、優秀だがすっかり捻くれた女性へと成長した。

 年頃になるにつれ、益々母親に似てそこそこ美しく育ったものの、女だてらに学を得てしまったが為に、周囲の男達が彼女に恐れをなした。

 それでも家の利益の為嫁ぐことはクレアの義務であり、彼女を忌々しく思う祖父が探してきたのがユーステスだったのだ。


 その為、ユーステスはこの婚約において常に自分が優位な立場だと自覚していた。

 クレアの祖父は厄介者を彼に押し付けた負い目があるのか、湯水のように金を用立ててくれたし、ユーステスが遊び呆けていてもクレアは冷たい目で見るだけで何も文句は言って来なかった。

 クレアとしては、無駄な労力を割くことを厭っただけだったのだが、ユーステスの勘違いに拍車を掛けたことは事実である。


 そんな風に、ユーステスが今まで下に見ていた、クレアが、王子の“運命の番”。

 彼にはまさに驚天動地、驚きの新事実だった。


「お前のような下賤の腹から生まれた女が、王子の“運命の番”なわけがない!」

 ユーステスが叫ぶと、キャシーも威勢を取り戻す。

「そうよ!騙されているんですわ、王子!クレア様のお母様は“運命の番”に出会ったと偽って、夫と子供を置いて駆け落ちした、阿婆擦れですのよ!」

 事実なので否定は出来ないが、人の家の事情を公の場で叫ばれて、クレアは顔を顰めた。

 婚約破棄による情緒不安定の所為で二人をボトルで殴ってしまいました、と言って、果たして判事は信じてくれるだろうか?と彼女の思考が危険な方向へとロケットスタートを切る。次に会う時は法廷です。


 クレアを評価する際に、母親のことが関係ないように、レジナルドの存在も関係ないのだと、分かってもらう為にはどれほど努力を重ねればいいのだろう。

 どれほど一人で戦い続ければ、いいのだろう。


「黙れ」


 ひや、と冷水を打ったような声が、大きくも威圧的でもなかったのに、場に響く。


 ユーステスとキャシーはハッとした様子で口を噤み、クレアはいつの間にか下げていた視線を上げた。

 その先には、彼女を見つめるレジナルドがいて、クレアの心の内側をかき乱す。


「生まれも育ちも関係ない。クレア自身だけで十分だ」

「……殿下」

 まるで、塞がりかけの傷の上をやわく羽毛でなぞられるような、気の狂いそうな快感。

 クレアはレジナルドを見つめて、言葉を無くす。

 何故分かってくれるの?何故、わたくしを見る時に、わたくしだけを見てくれるの?


「知れたこと。お前を愛しているからだ」

 言葉にはしていないのに、彼はクレアの欲しい言葉をくれる。


 今や、場の支配者は紛れもなくレジナルドだった。

 彼は何一つ武器を用いずに、この場と空気を掌握している。


「さて、それでは元顔見知りの赤の他人にはそろそろご退場願おうか。俺はクレアを口説いている途中でな、障害がなくなったのでここで畳みかけておきたい」

 レジナルドが店員に目配せを送ると、恭しく近づいてきた数人の店員達が、スマートにユーステスとキャシーを出口へと案内していく。

「!?無礼だぞ!」

「そうよ!私達は客よ!!」

 大騒ぎしながら退場させられていく二人を、クレアも他の客達も微妙な顔で見送ってしまった。


 そこで、レジナルドがゆっくりと立ち上がる。自然と、店内の視線は彼に注がれた。

「皆、楽しい時間に騒ぎを起こしてすまなかった。お詫びに一杯ご馳走させてくれ」

 彼がそう言うと、わっ、と場に和やかな歓声が起こった。この喜劇の幕引きには、泡の立ち上るグラスが最適だろう。


 それから、と意味ありげに彼は唇に人差し指を持ってくる。

「既に聞こえていたかもしれないが、俺は今夜彼女に求婚するんだ。どうか上手く行くように、静かに見守っていて欲しい」


 外堀を埋められた。





 控えめな拍手を受けて再び席に座ったレジナルドを、クレアはじろりと睨みつける。

「……もう恥ずかしくてこの店には来れませんわ」

「何故。求婚を受けてもらえた素晴らしい思い出の店にして、結婚記念日は毎年ここで祝おうではないか。お前の為ならば、今回同様必ず予約を取ってみせよう」

「既に結婚する前提で、話を進めないでくださいまし」


 今回、ユーステスの急な頼みにクレアがこの店の予約を取るべく頼った伝手、というのがレジナルドだったのだ。王族は定期的にこの店の席を用意されているらしく、今回の機会を譲ってもらったのだ。


「……こんな時だけ頼ってしまい、申し訳ありません」

「構わん。使えるものは俺でも何でも使うがいい、惚れた弱みだ」

 レジナルドの言葉に、クレアは難しい顔をした。

 これまでクレアは婚約者がいるから、という理由でレジナルドからの好意も優遇も全て一切断ってきた。

 けれど、今回あからさまに彼の手を借りたのには理由があった。

「…………ユーステス様の動向を逐一教えて下さるおかげで、今日のこの婚約破棄の件も予想が付きましたわ」

「で、あろうな。お前が去ってから、お前の用意したこの席で浮気相手と食事をしようと考えていたなど、浅ましい奴だ」

 レジナルドは喉の奥で嘲るように笑って、クレアの空のグラスにワインを注ぐ。自分の分も注いで、ボトルをクーラーに戻した。

「貴方のユーステス様への粗探しも、少しは役に立ちましたわ。まさか、ビル嬢は貴方の差し金ではありませんわよね?」

 クレアが瞳を瞬くと、その煌めきを心地よく受けて、けれど心外だとレジナルドは鼻の頭に皺を寄せた。

「俺が画策するまでもなく、あの男は商才がなく、女にだらしなかったぞ」

「まあ……」

 クレアは呆れる。ユーステスが商才なしの甲斐性なしなのは知っていたが、女性関係までは知らなかったのだ。


「お前の言いつけ通り、健気に日々本能を抑え王子としての政務に励む俺が振られて、あのロクデナシがお前の婚約者の座に居座っているかと思うと嫉妬で胃の腑が燃え尽きそうだった」

 グラスの縁をいじる、クレアの指先をレジナルドは握る。

「殿下」

「名を呼んでくれ。今は婚約者のいない身なんだろう?」

 咎める彼女の声すら、レジナルドには甘美な響きとなって届く。


 斯様に、“運命”とは抗いがたいものであり、クレアを高い塔のてっぺんに閉じ込めて、レジナルドだけを見つめる生活をさせたい、という欲求が彼を常に苛む。


 彼女がこうして五体満足で外を出歩いていることは、偏にレジナルドの努力と自制の成果なのだ。

 クレアはつい、と手を引き寄せ、レジナルドの掌から逃れる。

「レジナルド様がまだ婚約者でない以上、みだりに未婚の女性に触れてはいけませんわ」

 名を呼ばれ、まだ、と言われて、レジナルドは歓喜する。

 今までは、他人なので触れてはいけない、と冷たく拒絶されていたのだ。でも、今彼女はまだ、と言った。今後の未来があるということだ。

「……では、バーンズ卿にさっそく婚約の許しをもらいに行こう。だが、どうか、クレア」

 テーブルに置かれた彼女の手、それに触れるか触れないかという距離でレジナルドの指がそわそわと揺れる。いじらしいことだ。

「はい?」


「……愛しい我が番。祖父君に命令されたから、ではなくどうか、自ら俺を選ぶと言ってくれ」

「……それは」

 クレアは怯んだように肩を怒らせる。

 いとけない動物が精いっぱいの虚勢を張るようなその仕草に、レジナルドは愛情が募っていくことを止めることが出来ない。

「長い間“待て”を守っていた忠実な犬に、少しぐらい褒美をくれてもいいとは思うが?」

「……その割には、ご自由に振る舞っておられたと思いますが……」

 クレアはこの期に及んでもまだ可愛くないことを言う。その無駄な足掻きが、レジナルドにはたまらなく可愛らしく感じるのだ。

 運命の番。彼女から与えられるものならば、引っ掻き傷すらも愛おしい。

「……お前のその意地っ張りな文句も、100年でも200年でも聞いていたいが、今はどうか愛を。愛しい我が番」

 懇願するように言われて、クレアは悔しそうに唇を噛む。


 クレアだって、かなり薄まっているとしても、ドラゴン族の血を引く者だ。

 そして運命の番は互いが互いをそうと認識し、抗いがたい衝動でもって、求めてしまう、呪わしい程の強制力がある。


 純血種に近い者ほどその衝動は強く、けれど長命種であり頑健な肉体と精神を誇るドラゴン族だからこそ、その衝動にわずかに抗うことが出来る。

 事実、レジナルドは常に焼け付くような恋慕を抱えつつも、長い間直接的な行動を起こさず衝動を抑え込むことに成功している。

 漏れ出てしまう恋慕は、渋々ながらのクレア本人公認の元、ストーカー行為へと発展しているので、抑えきれている、と言えば語弊がでるかもしれないが。


 何が言いたいかというと。

 まだ若く、身も心も未成熟である只人のクレアにとって、運命の番への恋慕を意志の力のみで抑え込むことは、多大な努力が必要だったのだ。


 その上、かの番はしょっちゅう彼女を誘惑してくるものだから、つい冷たい態度で大袈裟に遠ざけようと抵抗してしまったことは、大目に見て欲しい。


 ああ、どうか。

「……ご自分だけが、身を焼かれるような衝動と戦っていた、なんて思わないでくださいませ」

「うむ……お前も同じ炎に焼かれていたかと思うと、この苦しみも甘美なものに思えるな」

 うっとりと濡れた瞳で、レジナルドはクレアを見つめる。

 彼女はあからさまな求愛に、羞恥で顔を赤くした。

「言ってくれ。……言葉が欲しい、我が番」


 形の良い爪の先が、クレアの指先に触れる。


 もう抗わなくていいのだ、と思えば叫び出したいぐらいの解放感があった。


「……わたくしの番は、本当に調子のいい方ね」




 たったひとつ、得たものは、狂おしいほどの愛。





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