01.セラという名の女の子
その日僕はいつもより、少し早く目が覚めた。
家の中がなんだか慌ただしい事に、気がついてしまったからだ。
階下からぼそぼそと聞こえる人の話し声。ぱたぱた走り回る音。
僕は、それに引き寄せられるように部屋を出て。
「大変……暴走する前になんとかしなくちゃ」
そして玄関で、難しい顔でお弟子さんと話し込む、お母さんと鉢合わせたのだった。
僕がいつもより早起きな事に、お母さんは少し驚いて。
「おはよう、シオン」
それからふっと表情を和らげて、優しい声で挨拶をしてくれる。
だけどその眉間には、深く皺が寄ったまま。僕のために笑ってくれたけど、お母さんの頭は難しい問題で一杯のようだった。
「おはよう、お母さん……朝からどうしたの?」
「ちょっと問題が起きたの。悪いけど、学舎に行かなくちゃ」
僕の質問に困った顔で返事をしたお母さんは、すでに服を着替えている。僕とおそろいの黒い髪も、頭の後ろで一つに束ねていた。
無理に引き留めても、お母さんを困らせるだけ。そう分かっているから、僕はこくりとうなずいた。
「気をつけてね」
お母さんが今日も一日、良い研究ができますように。そんな思いを込めて告げると、お母さんはなんだか複雑な顔をしたけれど。
「……ごめんね。行ってきます」
結局、呟くようにそう言って僕の頭を一回撫でると、急いで家を出て行った。
走るお母さんとお弟子さんの背中が、どんどん遠ざかって行く。それをしばし眺めてから、僕は玄関の扉を閉めた。
途端に、家の中がしいんと静かになる。玄関ホールの柱時計が時を刻む、こち、こち、こち、という音が、なんだかとても耳障りだった。
お母さんは出かけてしまった。
通いの家政婦さんも、まだ来ていない。
だから今、僕はこの家に独りぼっちだ。
一つ大きなため息をつくと、僕はお母さんの書斎に向かって歩き出した。
***
お母さんは、天才魔法使いだ。
百年に一度と謳われる才能の持ち主で、これまでにたくさんの魔法道具を実用化して、人々の生活を便利で豊かなものにしてきた。おそらく、歴史に名前を残す事になるであろう人だ。
それゆえにお母さんは、毎日とても忙しい。
魔法研究の中心である『学舎』でたくさんの講義を任されていて、たくさんのお弟子さんを指導していて、そしてたくさんの研究に追われている。
そんなお母さんだから、いつも僕が起きる前に出かけていき、そしていつも僕が寝た後に帰ってくる。ゆっくり顔を合わせられる時間なんて、ほとんどない。
お母さんになかなか会えないのは寂しいと思うけれど、この寂しさにも今はすっかり慣れてしまった。
それに僕はもう十歳。お母さんが恋しいなんて、泣いてしまう歳でもないはずだ。
でも、時々――本当に時々だけど、寂しくてたまらなくなってしまう時があって。
そんな時、僕はいつも、お母さんの書斎に忍び込むのだ。
部屋の中にほんのり漂う、お母さんの香水の、少し甘くてとても上品な花の香り。
その香りに包まれながら僕は、机の上に残されたお母さんの字で書かれた書類や、棚に並ぶお母さんが作った魔法道具達を一つ一つ眺めていく。
そうしながら、研究に取り組むお母さんの姿を僕は想像する。お母さんが生み出した技術が、たくさんの人の生活を豊かにして、たくさんの人の命を救う事を考える。
そうすると、僕の感じる寂しさにも、ちゃんと意味があるような気がして。
僕はほんの少しだけ、気持ちが楽になるのだ。
***
古めかしいオーク材の扉を開けると、いつものお母さんの香りがした。僕は一度深呼吸して、その香りを思い切り吸い込んでから、書斎に足を踏み入れる。
いつも綺麗に整っている部屋の中は、今は少しだけ荒れていた。
どうやらお母さんは、よっぽど慌てて家を出て行ったらしい。そんな事を考えながら、僕はいつものように、ぐるりと部屋の中を見回して。
「……あれ?」
だけど今日は、思わず間の抜けた声を上げながら、その場に立ち尽くしてしまった。
なぜなら――お母さんが時々仮眠に使っている、革張りの大きなソファの上に。
横たわって目を閉じる、一人の女の子の姿を見つけたからだ。
「……誰?」
僕の口からまた、ぽろりと声が漏れる。
だけど、その疑問に答えてくれる人はいない。女の子が、僕に気づいて目を覚ますような事もなかった。
こっそり出入りしている僕を除いて、この部屋にお母さん以外の人間が一人で入る事はない。
家政婦さんは『書斎の掃除はしなくていい』と言われている。お弟子さん達だって、お母さんが一緒の時しかここには入らなかった。
だからこの部屋に、人がいるのがとても奇妙な事に思えて。
気がつけば僕は、女の子の近くにそろそろと歩み寄っていた。
眠るその子のそばに立って、その姿を見下ろして。
思わず僕の唇から、感嘆のため息がこぼれた――ずっと見ていると少し怖くなるくらい、彼女が綺麗な顔立ちをしていたからだ。
歳は多分、十四、五くらい。
長いまつげにびっしりと縁取られたまぶた。高くて筋の通った鼻に、薔薇色の唇。肌はまるで陶磁器のように白くてすべすべで、新雪みたいな銀色に輝く長い髪も、絹糸のようにまっすぐでさらさらだった。
その綺麗な髪の右側では、豪奢な髪飾りがきらきらと光っている。細かい彫刻のなされた金の台座の上では大きな宝石が、朝日の光を反射して七色に輝いていた。
だけど、その高価そうな髪飾りとは裏腹に、彼女の服はとても質素なワンピース。袖がなく、丈も短くて、細い手足がほとんどむき出しになっているそれは、雪解けしたばかりのこの時期に着るものではないだろう。
そして真っ白な首には、チョーカーが巻き付けられていた。こちらも黒革をなめしただけの、とても簡素なもの。その真ん中には、小さな銀のプレートが一枚貼り付けられていて――そして僕は、その表面に文字が刻まれている事に気がついた。
その文字は、目を凝らして見なければ分からないくらい、薄くて小さい。
僕はぎゅっと目を細めながら女の子の首元に顔を近づけて、しばらくその文字をじっと見て――そしてようやく、それが人の名前らしいと気がついた。
ひょっとしてこれが、彼女の名前なのだろうか。そう思いながら僕は、それを小さな声で読み上げる。
「えっと……セ、セラ、フィーナ?」
――その瞬間、まるで僕の声が合図になったみたいに。
女の子の大きな青色の瞳が、ぱっちりと開いた。
名前を呼んだ時、彼女の髪飾りの宝石がきらりと光ったように見えたのは、僕の錯覚だっただろうか。ふとそんな疑問が頭に浮かんだけれど、すぐにそれどころじゃないと思い出して、僕は一歩後ずさった。
「ご、ごめんなさい」
あれだけ深く眠っていたという事は、きっと疲れていたのだろう。それなのに、僕がそばで騒いだせいで、彼女を起こしてしまった――思わず首をすくめる僕を、女の子は開いたばかりの瞳で、じっと見返してきた。
雲一つない晴天を思わせる、薄い青色の双眸。
それはしばし、僕を穴が開きそうなほどに、じいっと見つめていたけれど――ふいにぱちっとまばたきしたと思うと、彼女はその場にすっくと立ち上がる。
その動きに合わせて綺麗な銀髪がさらりと揺れ、窓から差し込む陽光をきらきらと反射した。
立ち上がった女の子は、僕より頭一つ分くらい背が高い。彼女は僕に正面から向かい合うと、恭しくお辞儀をしてみせた。
「おはようございます、ご主人様」
それはまるで、由緒正しいお屋敷で働くメイドさんのように、綺麗で洗練された一礼。
でも僕は、そんな女の子を見返して、ただ目をぱちぱちさせるばかりだった。
「ご、ご主人様?」
思わずおうむ返しの声が、口をついて出る。
「ぼ、僕はシオン……君のご主人様じゃないよ」
今日初めて会った彼女に、『ご主人様』なんて呼ばれる理由は見当たらない。だから慌てて、その言葉を否定した。
「ご主人様は、セラのご主人様です」
けれど、女の子――どうやらセラ、というのが彼女の愛称らしい――はそう言って、僕に小さく微笑んでみせる。
唇の両端を優雅に吊り上げているのに、その目は全然笑ってない。楽しくないけど無理に笑顔を作っている、というような、妙な笑い方だった。
「ひょっとして、君は……セラは、お母さんのお弟子さんなの?」
そんなセラの笑顔を見上げて、僕は彼女自身の事を聞いてみる。
お母さんはたくさんのお弟子さんを抱えていて、たまに家に連れてくる。ひょっとしたらこの子も、そんなお弟子さんの一人なのかもしれない――急用で飛び出していった師匠について行かずここで寝ていた、というのは、事情が良く分からないけれど。
「セラのご主人様は、ご主人様です」
だけどセラの返事は、やっぱり何が伝えたいのか良く分からなくて。
僕は彼女の澄んだ瞳を見返しながら、うーんと首をかしげてしまった。
尋ねれば、セラは答えてくれるけれど、その返事はどこか変だ。さっきから僕の聞きたい事がうまく伝わっていないような、何か歯車が噛み合っていないような、妙な感じがする。
それはどうしてだろう、と僕はちょっとだけ考え込んで。そしてすぐに、一つの可能性に辿り着いた。
「ひょっとしてセラは、どこかよその国から来たばかりなの?」
「セラはご主人様にお仕えするために、ここに参りました」
「……そっか」
質問を変えると、またまたへんてこな答えが返ってきて。
だからそれで、僕は確信した。
どうやらセラは、言葉の違う異国から来たばかりらしい。きっとこの国の言葉がまだ良く分かっていないから、こんなふうにおかしな返事ばかりしてしまうのだ。
よくよく聞いてみれば、彼女の喋り方も、ちょっと変わっている。まるで本をただ読み上げているみたいに、感情が全然こもっていないのだ。そしてそれも、この国の言葉に慣れていないからなのだろう。
そういう人は、お母さんのお弟子さんの中にたまにいる。
どうしてもお母さんのもとで魔法の勉強がしたくて、はるばるこの国に移住してくる見習い魔法使い。前に僕が会った外国出身のお弟子さんも、やっぱり言葉遣いが少し変で、話が噛み合わない事がたまにあった。
「セラは、僕のお母さんのお弟子さんなんだね」
「セラのご主人様は、ご主人様です」
たぶんセラは、自分の師匠や、その息子である僕を、この国の言葉でなんて呼んだらいいか分からないのだ。
だから、どちらの事も同じ『ご主人様』と呼んでしまっているのだろう。
これだけ言葉が通じないと、きっと毎日大変で、不安な事ばかりに違いない。
それでも、一生懸命笑顔を作っているセラに、僕は少しだけ同情してしまった。