井伊直弼の悲劇(上)
桜田門外にて亡くなった井伊直弼、彼は盲目的に幕府に従う人物でなく、学問や、芸術文化にも造詣の深い一流の文化人でもありました。
井伊直弼この名前を聞いたときに、皆さんはどのような印象を受けるでしょうか?剛腕、ワンマンの政治家でしょうか?安政の大獄を引き起こした人物、桜田門外にて襲撃されなくなった人物、というイメージが先に来るかもしれませんが、今回は彼「井伊直弼」の生涯について述べていきたいと思います。
彼の生涯は、大河ドラマの第1回目に「花の生涯」という名で放映されています。まず彼のプロフィールはこうなります。
井伊直弼(1615-1660)彦根井伊藩14代目当主、安政の大獄、日米修好通商条約の締結を行い、1660年登城中を、水戸、薩摩浪士に襲撃され死去。とでもなるのでしょう。
詳しく話していきますと、井伊直弼は1615年に井伊直中の庶子、14男として生まれます。よく小説で、八男とか六男とかありますが 、そんなものが比でない14男です。普通なら、良くて他家の大名の養子、普通で家臣の養子になるほどの生まれですが、兄弟のうち長子であった井伊直清(1791-1811)は病弱であったため3男直亮(1794-1650)が後を継ぎ、父の11男直元(1609-1646)を世子とし、直弼はその直元にないかあった場合のスペアとして部屋住みとして残されます。
直弼は、そのため父の死後城を出て、15年間年300俵を捨扶持として与えられ過ごします。その当時の直弼は勉学の他に、茶道や華道、鼓や、居合術、や兵学まで、励みます。その時に知り合い師となる長野守善(1815-1862)と出会い国学の師事を同時に行います。彼は文化人として一生を終えるつもりで、自らの家屋に「埋木舎」と称し世に出ずに終わる自分の人生を皮肉ったとも言われています。
しかし1846年当主である兄直亮の世子だった兄の直元が死去し、直弼が世子となります。またその4年後の1850年当主である直亮の死によって、直弼は彦根井伊藩の当主となります。
彼は埋木舎時代に行った勉学によって、尊王思想の持ち主でした。ですが井伊家の当主としての立場から、幕府への忠義も厚く「尊王佐幕」という思想の持ち主でした。この思想は当時は珍しいものではなく、水戸家は「尊王攘夷」ですが、会津松平家など同様の思想を持った人々は多くいました。
なぜなら討幕という思想がその当時はなく、安政の大獄で死罪となった、吉田松陰や橋本佐内もその思考は、大きく違うものではありませんでした。
直弼の井伊家当主になった3年後、幕府は外圧に屈する形で日米和親条約を結びます。その最中、12代将軍徳川家慶(1793-1853)が死去し13代徳川家定が将軍に就任しますが、彼は病弱な上、人前に出るのを極端に嫌う性質があり、就任直後から次代の将軍候補の話がでるほどでした。
一人目の候補は徳川最後の将軍となった一橋慶喜(1837-1913)です。彼は元々は水戸家の徳川斉昭の子でしたが御三卿の一つ一橋家に養子なった人物で、英明とよばれ、彼を推す人々も、この時代しっかりした人物がトップであることを望み、越前の松平慶永(橋本佐内の主君)、の他に山内容堂や島津斉彬が就任を強く推していました。
次に徳川慶福(後の家茂)(1846-1866)を推す南紀派と呼ばれる人たちです。この人たちは、「徳川家は将軍に最も近い血筋を次代とするのが慣習であり、水戸家より紀州家の方が血統は近いことを名目とします。早い話、現状の政治制度を変えたくなかった人たちです。
2派の対立が深まり困った幕府首脳は、孝明天皇に勅書を出させ、開国を進めようとしますが、失敗します。この失敗が大部分の国民が知らなかった京にいる天皇陛下は幕府より核が上であることに気づいてしまいます。このことは、後の幕府以外で強い力を持つ国という発想の生まれるきっかけにもなるからです。
次善策として南紀派は譜代の井伊家の当主直弼を担ぎ上げ、大老とします。彼自身国学を学び、一橋派のいうことは理解のできる人物でしたが、立場が変わったことにより敵対することとなります。次の将軍を紀州慶福に、アメリカとの交渉も開国にかじを切ります。
そのことについて緊急登城した徳川斉昭や松平慶永、一橋慶喜などの一橋派は登城の許可を得ずに江戸城に来たため、蟄居や謹慎となってしまいます。その後も配下を使い巻き返そうと行動を起こす一橋派に幕府は権力のはかるため行動に出ます。安政の大獄の始まりです。
13男から当主になる、なろうの小説もびっりの人物です。




