私見上杉家の歴史
これまで私が語ってきたことを総合すると、このような仮説がたちます。
ここからは私なりの、独断と私見にて上杉家の歴史を予想していきたいと思います。
まず越後長尾、上杉家には、三条長尾家と古志長尾家、上条上杉家と上田長尾家の間に長い期間の対立があったのは見えます。そして長尾為景が実質の越後の支配者となった後、上条上杉家は徹底的にたたかれ没落します。為景の子、晴景、仙桃院のにも母の実家であるにも関わらずです。そして為景は古志長尾家から後添えをもらいその子が景虎となります。為景の死が1543年とするとその当時、景虎は13歳、対する長尾政景は17歳となります。武田晴信は数え13頃に歳で初婚ですから1540年から43年の間に上田長尾家の長尾家の政景に、為景より、三条長尾家の実の娘、もしくは妻の実家の古志長尾家より妻を迎えるというのは、ありえない話ではなかったと思います。
そして生まれたのが義景と時宗であり、景虎が守護代を継いだ後、長尾家の融和と、対立構造を弱めるために義景を養子とする約束とし、時宗に上田長尾家を継がせるという形式をとったとすれば、晴景と景虎のお家騒動で、晴景派についた政景が64年に亡くなるまで静かだったのも、義景と、仙桃院の子である、景勝との年齢的な齟齬は解決します。
長尾義景は10に満たないうちに亡くなったされますが、この死も細かい記述が残っていません。上田長尾家の当主の嫡男であり、後の米沢上杉家初代藩主上杉景勝の兄としてなら、もっと多くの記述があって締まるべきですが、意図的に抹消された可能性も大きいと思われます。なぜなら古志長尾家の景信は上杉家では1530年頃から記述のある長老格でですが、彼の子供であろうとされる景満に対しては、全く気筒が残っておらず、子供がだれがいたまで全く分かっていません。1530年に20歳で家督をついだとしても、の1578年のの御館の乱では68歳です、子や孫がいておかしくない年齢ですが、それに対して、歴史では景満という息子がいたらしいというものにとどまっています。
そう考えると、この義景という人物が景勝の前に謙信の養子になるべく育てられていた、もしくは養子だったとすれば、朝倉家に礼を欠くことなくことはなくなります。朝倉家から上杉家に義景の娘が養子として入っています。彼女の役割が単に養女としてだけでなく、長尾義景の妻となる予定であったというのは、理論を飛躍させすぎでしょうか?
長尾晴景は1553年に亡くなりますがその2年前の1551年に実妹の仙桃院を、長尾政景と婚約させ、64年に政景が急死するまでに2男2女をもうけたとありますが、義景と時宗が仙桃院の実子でなかったとしたら、以下のような仮説が成り立ちます。長尾義景が後に謙信との養子とする約束を結び、次子である時宗を筆頭家老で、政景の弟も婿養子に入っている大井田家に婿養子に出し大井田基政とすることで、大出家との関係を深めます。
その後、何らかの理由で、政景の妻、義景が亡くなると、一時的に基政が時宗の名で上田長尾家を率います。その後1556年に景勝が生まれると、景勝が嫡子とされ、時宗は大井田家にもどされ、景勝には大井田家から守役として景国の義兄弟である大井田景能がつきます。ここまで長尾家と大井田家の関係は強固になっていますが、景勝が10になる前に景能は亡くなり、ある一族が台頭し始めます。樋口兼豊を当主とする樋口家です。樋口兼続は政景の死後、仙桃院の口利きで景勝に近習します。そして謙信の死後、越後に粛清の嵐が吹き荒れます、「御館の乱」です。
御館の乱は景勝を推す、上条上杉家と上田長尾家、景虎(元北条三郎)を推す、古志長尾家、山内上杉、北条家、武田家、伊達家などのあらそいで、景虎を推していた勢力の方が、正当なように見えますが、いち早く春日山城を抑えた景勝側が、山浦景国、畠山義春という残りの謙信の養子もみかたにつけ、同時に武田を寝返らせたりし、景虎側の将を寝返らせることによって勝利します。
この時上杉憲政や、古志上杉景信などを討ち取ることによって上田系の景勝側が越後のトップに立ちます。しかしその後も粛清の嵐は収まらず、山浦家は断絶に、上条上杉家は政繁、義春の出奔により、景勝以外の養子は上杉からはいなくなり、古志上杉家も景信の死後一門は解体されてしまいます。その後も越後では粛清のあらしが吹き続けます。
直江景綱は、乱の前年の1577年に病死し、家督は山内上杉の家臣である長尾の宗家のほうから、婿養子を事前にもらっていたようで、御館の乱のときの当主は直江信綱になっています。
乱の後、古志長尾家の解体に関係した河田長親が、1581年に38歳の若さで病死します。その遺領や与力の扱いについて、話し合っているときに、景虎側から寝返った毛利秀広に、景虎側の寝返り工作に深くかかわっていた山崎秀仙と共に殺害されるという事件がありました。
その後兼続は景勝の主命により信綱の妻であった、船(1557-1637)の入り婿となり直江兼続となります。ちなみに上田長尾家の他の家老であった、大井田家と栗林家はどうなったでしょう。
大井田家は1590年景国が切腹を命じられ、死去、同年基政も発狂狂乱のため、家督名上げの後に他家預かり、俊継は1590年代に庄内地方では発生した一揆の討伐時に戦死しています。また栗林政頼は景勝の国替えの時に、同行し1599年会津でなくなりますが、その後の栗林のことは、記録には残っていません。
1590年この年、全国的にはなにがあった年でしょう。この年には「秀吉の小田原征伐」がありました。上杉家も秀吉の命によってこれに加わっています。
上杉家と北条家を語る上に欠かせない人物がいます、上杉景虎(北条三郎)です。もしかれが御館の乱の後、落ち延びて北条家に戻っていたとしたら、上杉家には非常に困る事態でしょう。そしてその責任を、大井田家の責任として、景国の切腹、基政の押し込めを行ったとしたら、基政の行動も理解できそうです。そしてその前後から石田三成と直江兼続の関係は始まったのでしょう。
ですから関ヶ原の戦いの前に、三成と示し合わせ西軍として戦ったのは、必然なのかもしれません。しかし、長谷堂での戦いで敗れ、総勢上杉軍が3万、最上、伊達連合軍が1万人です。先頭の最中に西軍本体の敗北を知り、上杉軍は撤退を余地なくされます。
それでも御館の乱の後に新発田重家の反乱に1年以上時間がかかったことや、長谷堂での動きを見ると、直江兼続は、政治や、謀略にはたけていても、軍を率いての戦闘には弱かったように見えます。もっとも、それまでの行動により、どれだけの人が兼続のために戦ってくれたかはわかりませんが、敗勢になったときはもろかったのでしょう。
その後上杉家は米沢に減封となります。他の上杉家家臣から見れば、直江兼続は圧倒的に不利な状況に上杉を追い込んだ極悪人、そもそも、会津への転封もあと半年待っていたら秀吉がなくなり(共に1998年)、行われなかったかもしれません。そしてその後の直江家は、徳川家から目付にあたる本多政重を婿としています。
その後本田政重が去り、嫡子景明が早逝しても養子を迎えれる立場ではなかった気がします。兼続が1620年に妻船が37年に亡くなると直江家は断絶します。関ヶ原の責任を取った形でしょうか。
直江家が断絶したため、上杉家の藩史では直江家はよく書かれていません。徳川光圀が大日本史を編纂し始めたのも1650年代以降です。それも人を遣わして書籍や証言を入手し、それを精査し正史として載せたものです。越後上杉家も自家の不利になることは伝えなかったでしょう。
最後に、一つのエピソードを挟んで、今回の推論を締めたいと思います。
上杉景勝は生涯ほとんど笑ったことがなく、記録に残っているものは1件しかないそうです。それはある日、執政を行うために部屋にやってくると、飼っていた猿が景勝の頭巾をかぶり、周りに指示を出すような動きをしていた時だったそうです。
景勝の人生を顧みると、樋口兼豊、兼続父子に操られ、多くの家族や家臣を失ったと考えれば、その笑いも自分を猿に当てはめての、自分に対する自己批判の笑いだったのかもしれません。
以上が私なりの推論ですが、これが越後上杉家の隠された闇であると思っています。
長尾為景が下克上をなしてから、直江兼続がなくなるまでに、不可解な事件や明らかに不自然に改ざんされた記録が多くみられます。それを私なりに総合判断したのがこの結論です。