上田長尾家と家臣団のその後
樋口家以外の上田長尾家の家臣団と、直江家のその後についてです
三条長尾家、古志長尾家と比べ、謙信の時代、上田長尾家は一段低く見られていたように見えます。しかし、御館の乱(実際は変と言った方が近いかもしれません)のあと実権を握ったのは上田長尾家から養子に入った上杉景勝です。その中で有名な家臣と言えば、直江兼続(1560-1620)でしょうが、その他の家臣についても述べていきたいと思います。
ドラマ「天地人」見たことがある人は兼続の実家は樋口家であるのはご存知でしょう。しかしドラマと違い実父の樋口兼豊(?-1602)は下級武士ではありません。上田長尾家には重臣の家系が三家あり、一つが樋口家、もう一つが栗林家で、この二家はドラマでも出てきていましたが、実は筆頭格は別の家でした「大井田家」と言います。
なぜ筆頭格かと言えば、大井田家は清和源氏の新田氏の士族で、鎌倉末期に新田義貞について勲功をあげたことが記載されるほどの名家です。そのためか、上田長尾家と血縁の濃い一族でした。長尾政景の弟が大井田家に婿養子となり、大井田景国(?-1590)となっていますし、一説では、謎の人物とされる長尾時宗も同様に大井田家に婿養子になり大井田|基政《もとまさ》(1546?-1632)となったのではないかとの説もあります。これを見ておや?と思う人がいるでしょう。基政(時宗)の生誕が1546年(政景20歳)の時とすれば、長尾義景と同様に2人は仙桃院との子ではないということになります。
しかし大井田家(特に基政)の事はほとんど歴史にも残らず、父景国が1590年に突然切腹を命じられ死去、同年基政は精神錯乱にて蟄居(1632年死去)、そして基政と同様に婿養子として大井田家に入った俊継(母が大井田家の出)も1590年代に庄内地方であった一揆鎮圧の時に戦死します。大井田一族はほかにもおり、佐渡平定後、佐渡新穂城代になった大井田房仲などいますが、関ヶ原の戦後米沢にはいかず、前田家に仕えています。つまり大井田家は上杉家の中心から消えていきます。
米沢上杉家の藩史に直江兼続、および樋口家に対してはよくは書かれていません。上杉の付いた西軍が関ヶ原の戦いで負けたこと、直江家が兼続の息子景明(1594-1615)の早逝、娘と本多政重(1580-1647)の婚姻が行われますが、翌1605年に娘が死去し、養子(実弟大国実頼の娘)を婿とし、関係の継続を図りますが、1611年に離縁になります。
その後一度武蔵に戻った政重は次は加賀前田家に家老待遇として仕え、離縁した娘も政重のいる加賀に行きそれによって子供のない直江家は兼続の死後、妻船が1637年に死去し断絶となります。
なぜ直江家は景明の死後養子を取らずに断絶になったのでしょう。実は景明の生まれる前に、直江家は、本庄繁長(1540-1614)より三男を養子に迎えます(1593年)が、その翌年景明が生まれたため、実家である本条家に戻っています。そして彼も政重の縁を頼って前田家に仕官しています。
直江家の断絶は兼続の目先の利を追う行動にあったともいえるでしょう。
大国実頼は1604年の直江家と本多家の子人に反対し、相手側の使者を切り出奔し、上杉家への帰参は兄の死後に1622年と言われています。