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歴史における通説と私見  作者: 鹿島三塁手
平将門ってなんか不思議なんです
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平将門編その3 最終稿

 そう考えると、将門、国香の名前の特殊性だけが際立つのですよね。他は良や望、など軟らかい文字と名前なので、響きが異質に聞こえるからかもしれません。

 ただ不思議なのは、国香(息子は平貞盛)の官位官職は、従五位下・常陸大掾、鎮守府将軍なのは、従五位下・常陸大掾までは舅である源護から受け継いだ?受け継いでいいものなのか?でしょうから鎮守府将軍は後世の追号みたいなものでしょうかね。

 そうすると839年に亡くなった平良兼の従五位上・上総介、鎮守府将軍というのも、後世の子孫の箔付けなのでしょうね。平良将の従四位下、鎮守府将軍も謎なのですよね。将門を倒したとされる貞盛の父より官位が上なのですから。そのあたりは、平家の直流とされた清盛一門がことごとく、『尊卑分脈』を作った時にはいなかったというのが実際の話なのでしょうね。


 とにかく、将門の祖父にあたる『高望王こと平高望』彼がいないと、数多くの平家の子孫が、そうでないことになってしまいます。

 そして、将門を朝廷に悪く言い、疑惑を訴えたのが、『源経基(みなもとのつねもと)』彼がいなければ、のちの清和源氏の隆盛もなかったといえるでしょう。彼の孫の孫が『源義家』なのですから。

清和源氏と桓武平氏、どちらも平高望がいないと困るんですよねえ。


 まずここで、いったん話を進めます。相馬小次郎は、どうも様々な別の検索に引っかかるようなので、彼の別名『滝口小次郎(たきぐちこじろう)で検索をかけます。

 すると、『将門記(しょうもんき)』のは乗っていない話がわかってきます。


 彼は幼少期には母の出身地である下総国で育ち、十五歳から十六歳頃には平安京へ上京しており、その頃から藤原忠平を主君と仰いでいます。どうも、京に言った理由は、父良持の死により、伯父である、国香、良兼に勧められてということらしいです。そこに国香の子、貞盛も同行し、2人で京へ行ったようです。

 そして十二年後地元に帰る途中で、伯父の国香、良兼に()()()()()。理由はいくつかあるようですが、父良持の遺領の横領というのが、事実でしょう。源の護の娘は、すべて自分の、伯父や叔父の妻です。年代が合いません。高見王という人物を入れてしまったため、年代が合わなくなっていますから。

 『平真樹たいらのまき』という謎の人物(経歴、家族、年齢全て不明)と、源護に協力する、娘婿国香、良兼の争いに巻き込まれたという説もあります。横領と巻き込まれというのが正しいようです。将門記の記述が、不安定なのは、やはり高見王という人物を後で、年齢調整で入れてしまったので、世代がずれてしまったことにあります。あまりに辻褄を合わせて作ったため、設定が変わったため、全てが崩壊しています。

 平真樹の記述に常陸の『大国玉神社(おおたまくにじんじゃ)』が近くにあったということから、調べると、現在の茨城県桜川市にあり、時代的に真樹の時代にもあったことがわかります。ただ、鉾田市の主石神社、同じ桜川市に鴨大神御子神主玉神社というのがあるので、どれかはわかりません。ただこの時代に高望王の一族以外に平氏が『関東に』いたのが謎です。

 結局伯父の国香は討たれ、その後、将門は、伯父良兼、国香の子、貞盛からも攻められますが返り討ちにし、あえて良兼を逃がしています。それは()()()()()()()()()()()()()として、認められ、936年、源護によって出された、告訴にも、堂々と京にきて反論をし、大赦の時期と重なり、無罪と認められています。


 問題は『興世王(おきよおう)』という人物が武蔵の権守《ごんのかみ》となって938年に来てから起こります。この人物ですが生年月日わからない人物ですが、『一説には桓武天皇の王子で謀反の嫌疑をかけられ自害した伊予親王の玄孫とあるのですが、ここで謎があります。前述で『天皇の孫が臣籍降下する場合は『源氏』それより下の曽孫以降が臣籍降下する場合は『平氏』になる。』とあったので、彼の場合は平氏、もしくは源氏に、とうの昔になっていなければならない人物なのです。

 実は平安時代にずっと『〇〇王』と名乗った家系が一つあります。『旧百済王家』の子孫です。実際彼の後、正式な武蔵守として来る人物が『百済王貞連』で、対立したとも、興世王と相婿の関係だったとされています。また同時に武蔵介(守の副官)として清和源氏の始祖『源経基』がいます。


 その後はよくご存じな方も多いので省略しますが、将門()()()()()()()()()より関東一円を席捲、関東を中央から独立を目指し、最後は平貞盛と、下野にいた藤原秀郷に討たれるのですが、なぜか彼は『祟り神』になっているんですよね。


 祟り神とは、日本古来より存在するとされるもので、桓武天皇も祟り神によってなくなっています。祟り神の特徴は『自分に責任のない無実の罪で亡くなった人』がなるもので、実はこの乱ではもう一人『祟り神』が生まれています。『藤原忠文(ふじわらただふみ)』という人物なのですが、彼は、将門の独立宣言時に、朝廷から将門の討伐のため『征東将軍』に任ぜられた人物です。


 藤原忠文は朝廷内で武人として認められていたようで、68歳という高齢で、将門追討の任に選ばれ、翌941年には藤原の純友を討ったという、経歴の持ち主なのですが、将門追討のために、関東への進軍中に将門が討たれたため、大納言・藤原実頼が嘉賞に反対し、()()()()()()()()()()()()()。忠文はこれに不満を持ち、辞任を申し出るが許されず、純友の追討に赴かされ、947年に74歳で亡くなっています。

 これだけなら、よくある、貴族の争いなのですが、その後、天暦元年(947年)六月に忠文が没すると、十月に実頼の娘の述子(村上天皇の女御)が、十一月には実頼の長男・敦敏が相次いで死去しています。

そのため、京都の宇治に藤原忠文は祭られています。まあ神社の名前が『末多武利神社(またふりじんじゃ)』って言うのもどうかな?とは思いますがね。


 ともかく『将門の乱』がなければその後の高望系の平氏、ちなみに平高棟系の桓武平氏は、官僚として朝廷内部に残り、平清盛の時代に平時忠を輩出しています。


 いつもなら、ここで自論を展開するのですが、今回はあまりにも内容が飛躍しすぎているので、この一文だけ言います。


      『本当に平将門はいたのか?』


ということです。この場合は彼の存在でなく、平将門という名の人物がいたのだろうかということなのです。今以上の情報の伝達が遅かった時代、乱を起こした『相馬小次郎』は平将門だったのか?藤原忠文は本当に、乱の制圧に間に合っていなかったのか?


 この辺の歴史も、『将門の乱』で運よく国府が落ちたので、詳細な情報が残っていないのですよね。ただ、祟り神は『無実の人間』のなるものですので、なぜ『将門』に適応されたのでしょうか?このあたりで、今回の話は締めたいと思います。


 ちょっと、これに自分なりの私見を反映するのは、控えさせていただきます。予想が、状況証拠だけの上、かなり危ない方に話が飛んでしまいますので。あとは富士山にでも聞いてみてください。

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