平将門編その2
どうも、高見王、高望王以降が不自然なんですよねえ。
話を戻します。おそらくは、桓武天皇の孫、高望王(平高望)の孫とするなら、将門以降の兄弟、それよりも父良持の兄弟を平高望が高齢だと作れない、かといって平の高望を850年生まれにすると、今度は父である『葛原親王786年12月1日―853年7月13日』の64歳の時の子供になります。ですからつじつま合わせに高見王という人間を間に挟んだのでしょうが、こうすると、また矛盾が生じる箇所が出来てきます。そう妻の問題です。
平高望が850年生まれなら、当然ほぼ同年代の妻があてがわれます。『藤原是雄』は830年にはなくなっているので、その直前に子が出来たとしても高望とは最低20歳違います。『仲野親王』(792年生まれ―864年没)息子の『茂世王』の任官が841年、おそらくこの任官時期が元服と見ていいでしょう。850年前後に娘となると、58歳以降ですかというか、彼には娘は2人しかおらず、嫁ぎ先の記録も『本朝皇胤紹運録』に残っています。女子:宜子女王 - 斎宮。うわ斎宮ですか。これは伊勢神宮に行き、天皇の代理として仕える姫巫女です。もう一人も女子:班子女王(833年 - 900年) 光孝天皇女御、のち皇太后って、話になりませんでした。ですから無理なのです。逆になぜ選んだのか不思議なくらいですね。
そうなると『橘春成』(生没年不詳)この方が妻の父となりますが、確かに女子の子がいたのですが『高見王妃』となっています。…父の妻ですね。ということはこの3人以外に妻がいたことになりますね。まあ伝わっていないことは、よくあるので、ここはスルーしたいのですが、兄との勘違いというのもあるので二人の兄の経歴を見てみます。
平高棟の項目を見ると、朝廷の中枢で、バリバリ仕事をしています。その息子も同様です。ここと勘違いはないようです。
では2人目の兄です。825年に任官するのですが、その4年後の829年に亡くなられています。
葛原親王の息子は、この二人の他は、高見王または高望王と書かれるだけしかいないので、勘違いというわけではないようです。良将の弟は誰の子なんでしょう?
宇多天皇の勅命により平姓を賜与され臣籍降下し昌泰元年(898年)に上総介に任じられた父の高望とともに坂東に下向した。ちなみに良持の弟には『良広、良文、良正、良茂、良繇』などとあります。ただこの中で、明らかに存在の確認できない人もいます。
平良広、四男または七男とあるのですが、866年に伴氏や、紀氏と共に土佐に流される。とあるのですが、高見王を入れてしまったので、つじつまが合わなくなってしまいます。そうするとその経歴にも疑問がつきます。
次に『平良正』です。彼の問題点は平高望あるいは平良持の子としているのですが、妻が兄国香、良兼と同じ、『源護』の娘なので、良持の兄弟としか見えません。問題はその良持が兄国香の別名良望と一緒なんですよねえ。
そして『平良繇』は経歴さえ怪しく(他の人が、同時に同じ職にある)など、あります。
『平良文』(886年)3月18日に京で生まれ、別名『村岡五郎』側室の子であったため、兄や父と別れて、京に滞在(923年)、36歳の良文は醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅令を受けて東国に下向し、盗賊を滅ぼしたと伝わるのですが、一定の信憑性を評価されている『将門記』には良文の名はなく、『尊卑分脈』の坂東八平氏の系図には混乱が見られることから、実際には平高望とは無縁の氏族が後世になって仮冒したものと考えられている。と言われており、一言で言えば、平高望を含む一族が国香、良兼、良将も含めて存在は確認されているが平氏という面では?がついてしまうんですよね。




