平将門編その1
この人物は大きな何かを抱えている気がするんですよね。
律令国家であった古代日本では、皇族というのは、天皇の4代目までで、5代目以降は皇族ではありませんでした。
そして平安時代になると、天皇の子も増え、それを養うことが難しむなってきますので、臣籍降下ということが行われました。桓武天皇は100人近い皇族に姓を与え、臣籍としたようです。そして臣籍になるとき、『姓』が与えられました。
今の天皇家の方々も姓がないのは、平安時代も同じで、嵯峨天皇は、自分の兄弟の家系を『平氏』自分の直系を『源氏』とし臣籍降下を行いました。その後さまざまな天皇の子孫が臣籍降下を行いますが、どうも基準があったようです。
天皇の孫が臣籍降下する場合は『源氏』それより下の曽孫以降が臣籍降下する場合は『平氏』だったようです。その結果『二十二源氏四平氏』という数の源氏と平氏が生まれました。
平氏というのは数が少なく有名な平氏が『桓武平氏』しかいないので、特別に、桓武平氏を『平家』と言います。その中でも初期で有名な人物は『平将門』でしょうか?
これを論ずるときに気になったことがあります。私が子供のころに読んだ話では、将門は『桓武天皇の孫高望王の孫』と習った気がするのですが、今は違うようです。書き込み可能の、某サイトでも見てみましょう。これにも使い道があるので。
『平将門』のページから、父、祖父と辿ります。『平良将』から『高望王』へと飛ぶと、父親候補が二人いることに気づきます。一人は桓武天皇の皇子『葛原親王』もう一人が、私の知らない人『高見王』という人です。先ほども言った通り、天皇の孫が臣籍降下する場合は源氏、ひ孫が臣籍降下する場合は平氏だとすると、高望王の父とされる『高見王』は立派な経歴の人物で、有能でなければなりません。そうでなければ、彼の時代に臣籍に降下されてしまうのですから。
次に高望王の官位官職です。官位は従五位下、官職は大親正皇族の臣籍を管理する役割で『上総介』です。正直、あまり良い扱いではないですね。従五位下というのも、ぎりぎり朝廷に上がれる官位です。
次に葛原親王です。『葛原親王786年12月1日―853年7月13日』官位は『一品、皇子のなかでも親王と呼ばれた人』で官職は『大宰帥』大宰府の長官という流石親王といったものです。
では『高見王』がその間に入る場合当然、息子より官位官職は高くないといけません。なぜなら、そうでなければ、自分の代で臣籍降下しないといけないからです。
『高見王生没年不詳』無位無官であったことが残っている。何かおかしい気がします。もう一度『葛原親王』のページを見ると子供の高見王のところにもしくは高望王とあります。
次に高望王の母の項目を見ます。実名でなく、父の名が載っています。『橘春成』義理の父も生没年がはっきりしませんが、任官の履歴があります。最初は846年従五位下で、最後の任官が870年の『次侍従』侍従の増員というより、侍従8人から92人の次侍従の増員というのは『名誉職』なのでしょう。ということは870年にかなりいい年という事になります。ということは、800年代前半の生まれになりますね。兄弟の『橘高成』も844年に官位を貰っているのでおそらく、兄弟の生年は820年前後でしょう。
次に二人目の舅候補『仲野親王』です。父は桓武天皇ということは、『葛原親王』の兄弟ですね。(792年生まれ―864年没)息子の『茂世王』の任官が841年ですね。ほぼ、『橘春成』と同世代だと思っていいでしょう。
3人目です。『藤原是雄』生年不詳―没年831年五月19日)です。調べると、ところどころ『尊卑分脈』という文字がありますが、これは気にしなくてよいです。調べたらわかりますが『南北朝から室町初期に作成』されたもので、その当時に人々の思惑が絡んでいる文書です。
話を戻しますが、『藤原是雄は818年に従五位下』に任官とあります。前の二人に比べて10~20くらい年上でしょうか?どうしましょうと思ったところで、『高望王』の生没年に注釈があります。これによると生年は806年、839年、850年、生まれ、亡くなるのが911年、912年、917年と幅があります。ちなみに生年が806年だと臣籍降下したのが、83歳になりますね。ないことはないでしょうが、83の人間を上総に派遣するというのは、中々厳しい行為です。
では839だとどうでしょう?臣籍降下が50で息子とともにですか、ないことはないでしょうね。では850年だと39歳の臣籍降下ならまあ、ありえますね。上総に向かったのは平高望、良将の他に2人の兄」国香、良兼、の3人で、良広、良文、良正、良茂、良繇がのちに生まれたとあるのですが、50で上総に行って、5人ですか、このあたりの問題で、どうも『高見王』という謎の人物が中に挟まったのでしょう。でも彼は無位無官です。普通に考えれば、彼の時代に『平氏』として臣籍降下するのが当然なのでしょうが、彼についての記録は全く残っていません。兄二人は825年に平氏として臣籍降下を行うのが普通で『高見王』の生没年も平高望も不自然な理由として考えられることがあります。




