建武の新政の問題点
建武のの新政とは鎌倉幕府滅亡以降に後醍醐天皇が中心となって行った政治の事ですが、一言でいえば「懐古主義」です。天皇自身が「醍醐天皇」の世を目指したのですが、残念ながら時代がそれを許してくれませんでした。
後醍醐天皇に明確なビジョンがなかったことも問題ですが、その配下たる貴族も鎌倉幕府成立から約150年間国政を担ったことがありません。そのため国内は大混乱になりますが、朝廷は何をしていいかわからず、無為に時間が過ぎてゆきます。
恩賞も足利、新田、楠木、名和、赤松など功績のあったものに対する、恩賞も天皇の寵姫「阿野廉子の讒言などにより、明らかに差別にされていました。そのため建武の新政は最初から爆弾を抱えた形でも始まりとなります。
これが武士と貴族などの1対1の争いなら事は簡単なのですが、そこ新田と足利の武家同士や遂には護良派と阿野廉氏の子である義良親王(後の後村上天皇)の勢力争いもあり、あっという間に混とんとしていきます。そうして不平不満を持つ武士は、自分の権利を保障してくれる新しい棟梁をたてようとします。それが足利尊氏です。
問題はその二人の性格にあります。前者は何も考えずに突き進んでいくような性格で、後者は一人では決断力のないふらふらと流されてしまう性格です。おかけで大きな遺恨や対立が残ったまま、時代が進んでいきます。
その反動で、後年将軍の権力を強くしようと考え行動する人物も出てきますが、それも上手くいっていません。幕府という土台を作るときにしっかり作っていなかったからのようです。
室町時代の有名人「一休宗純」(1394-1481)についてです。物語などでは将軍義満と知恵比べをする小坊主といった風に書かれていますが、実際の彼は実に皮肉屋でたとえは「新年おめでとうございます。」と言われたとき「年を重ねるのはそれだけ死に近づくということ、これはめでたいということなのか?」というなどいう皮肉屋です。
彼は足利義満と対立していた後小松天皇のご落胤とされていますが、6歳の時に仏門にれられます。天皇には一度仏門に入った人間はなれないという決まりがありますので、彼の行動発言には何かを諦め、ひねくれたような行動は、天皇家の血筋にうまれ、仏門に入ることから、その争いを客観的に見ることができたからなのでしょう。
実は同じように領地を多く与えすぎて、失敗してしまった人がいます。太閤豊臣秀吉です。彼の場合は譜代の家臣のいなかったことと、国内の統一を急ぐために仕方のない一面もありましたが、室町幕府は足利尊氏の気前の良さが裏目に出た感じがします。
「気づいたら源氏の棟梁になっていました」どこかのラノベのようですが足利尊氏の一生はこんな感じだったのでしょうね。




