弟と執事
足利尊氏という人は、実は周囲の人間にかなり恵まれています。弟直義(1306-1352)や執事の高師直(?-1351)、師泰(?-1351)です。
わかりにくいので内閣風にいえば、尊氏が総理大臣、直義が官房長官、高高師直、師泰が党の幹事長や政調会長などの足利家の一門、家臣をまとめる党4役あたりでしょうか。
つまり表向きの政治をまとめ、総帥である尊氏を支えるのが直義、一門や家臣団ををまとめ軍事や謀略などの裏の仕事を行うのが執事の高兄弟が当たることによって、優柔不断なお坊ちゃんである尊氏を支える両輪でした。
しかし九州から舞い戻り湊川の戦に勝ち、後醍醐天皇天皇を吉野に追い出し、持明院統の光厳天皇をたて、北朝をたてると、直義派と高兄弟派の対立が起こります。
直義の立場であれば、兄尊氏をはじめとした足利宗家の力を大きくし、政権を安定させていくのが、今後の目標になります。高兄弟率いる派閥はここの武士団の地位の口上を求め、それによって執事である高兄弟の権力も大きくなっていきます。眼前の大きな敵がなくなることによって、利害関係によって内部分裂し始めるのは、政権交代時にはよくある話です。
尊氏は実は嫡男義詮の他に子供がいました。後の直冬(1327-1387)です。生年を見ればわかるように鎌倉時代彼は生まれています。浮気というよりあの時代の源氏の嫡流と目されていた尊氏に対する接待の一環で、生まれた子供なのでしょうか。1340年代に尊氏に面会を許されずに、弟の直義が養子として引き取った形になっています。
養子として尊氏の庶子を養子にしたことによって、尊氏と直義による二頭政治はさらに強くなると同時に、執事である高家の立場は相対的に下がります。高兄弟素行というのは実はそんなに良くありません。寺社などの荘園の横領や、旧家でない新興勢力の保護などをして勢力を拡大していたので、足利一門を統率する立場にある直義としては、政治を乱すものと映ったとしても仕方がありません。
この場合は本当であれば、トップたる尊氏が結論を出さないといけないのを、彼は出来ていません。この辺りがやはり甘いと言えます。
おかげで対立はどうにもならない状況にまでなり、結局弟直義、執事である高兄弟共に失います。
しかし一門衆と配下の武士団をまとめるべき人物を失い、南朝方と北朝側を行き来するするような人物(実際尊氏もそうなんですが)が許される状況を作り、この状況が落ち着くまで、約60年1392年の足利義満の時代になってからです。
義満は南北朝をまとめる事には成功していますが、尊氏の時代に大大名を多く作ってしまった弊害から、義満というカリスマ性を持った人物によって何とか抑え込めるという、不安定な状況は変わりませんでした。
軽すぎる神輿もまた何かの拍子にふらついていますので、それも問題なのですね。




