主役になれない男、新田義貞
まあ鎌倉時代は先祖の責任というのもありますが
足利氏の時に新田氏が、いかに鎌倉幕府で冷遇されているかは分かったでしょうが、それはある意味新田氏の自業自得というやつです。いくら平家に縁があり、その後中立から転じて幕府に頭を下げたからと言っても、その後の対応で足利h度ではないにしろ清和源氏なのですから、中級の御家人までは行くことは可能だったはずです。
それをしなかった新田氏の悪い意味でのプライドが状況を悪化させただけです。格や自尊心の高さをおさせてでも、頭を下げ、各戦や承久の変に当主が参加するなどしたら、事態は変わっていたはずです。それもこれも自業自得で頼朝一族が滅亡後は新田が源氏の嫡流なんて思っていたとしたら、とんだ勘違いです。
その理論でいえば源頼光の子孫で美濃に下った土岐氏や、多田氏が嫡流になります。実力のない血筋など鎌倉幕府にはいらなかったのです。実力がなければ朝廷側に権力を引きずり戻される可能性もあったのですから。
その後の行動は悪い方にまわりつづけ、一族の庶流里見氏などの独立、幕府の法を守らなかったことでの宗家の世良田氏への変更も、自分の蒔いた種です。そしてついには足利に保護される立場になりながらも、足利を憎む。本当に歴代当主は何をしたかったのかりません。
そして鎌倉幕府滅亡の時1333年各地で反乱がおきたときやっと新田は腰をあげます。この辺も中立、様子見の気の強い新田といったところでしょうか。
そのため、鎌倉を攻める先頭になった新田ですが、後に合流した尊氏の嫡子(後の義詮)に戦後の名誉をほとんど持っていかれます。各地の武士も新田より足利を源氏の嫡流、たよれる当主とみたからです。
鎌倉滅亡後に足利は建武の新政の中心から離れます。そこのは尊氏の弟直義や、家宰の高氏などの意見もあったでしょうが、尊氏はそれを尊重し行動します。
一方新田は親政の中心である後醍醐天皇に必死に媚を売ります。ですが天皇の周りは貴族などの取り巻きによって、討幕の第一人者、楠木正成ですら、れう遇される状況です。
そして新田義貞は。、それなりの領地と天皇から側室の下賜というなかなか微妙な評価を受けます。
そして中先代の乱の後尊氏の召還命令を無視した行動に、朝廷側は新田義貞を大将に軍を率いさせますが、見事に足利軍に負けます。今までの行動、家格の差、人望の差がもろに出ています。
それでも天皇側は新田、楠木、北畠などの活躍で一度は尊氏を九州に追いやりますが、そのご勢力を盛り返した足利軍に対し、湊川での正攻法の戦で敗北、楠木正成は義貞や南朝側の諸将を逃がすために残り、討ち死にします。
その後南朝側は吉野に落ち延び、有力な武将に後醍醐天皇の子供を付けて、各地に赴かせます。一網打尽にされることを嫌ったのでしょう。義貞は「尊良親王を託され、越前に入ります。
その後は1337年越前金ケ崎を高師泰(足利の家宰行の一族師直の弟)に攻められ敗北。尊良親王は自刃します。
その後も義貞は北朝側の足利軍とたたかいますが1338年討ち死にしますが、敵である北朝側だけでなく、南朝側からも「犬死」扱いされています。南朝側にとって武家とは、その程度の意識としかされなかったのでしょう、建武の新政自体が復古主義だったのですから。
そして新田義貞の死も「太平記」には「平家物語」の木曽義仲の死と全く同じ田に馬の脚を取られ、言かけられて亡くなると書かれています。この南朝びいきの太平記の記述からも義貞の南朝内での評価がわかります。
鎌倉討伐という勲功をあげながら武士を使いつぶすことしか知らない南朝側に付き、討ち死にしてこの評価では彼も浮かばれないでしょう。
その後も江戸時代、同じ新田氏の子孫を自称する徳川氏のの時代になっても、家系図を提出しなかったということにより、120石しか与えられず、その評価が変わるのは明治になるまで待たなければなりません。まあそれでも、には大楠公楠木正成にはかないませんが。
つくづく主役になれない人なんだなあと思います。
建武の新政後、足利と仲の悪かった(一方的に思ってるだけ)新田には足利に頭を下げるという選択肢はなかったでしょうね。




