足利尊氏という神輿
足利尊氏という人間が南北朝時代を分かりにくくしている気がします。
足利高氏(尊氏)(1305-1358)は足利貞氏の次男として生まれます。 彼の兄「足利高義(1297-1217)は源氏の嫡流を示す「義」と北条高時の偏諱である「高」を名にもつ人物でしたが若くして亡くなり高氏に足利一門の宗家という立場が回ってきます。兄とは8つ差があり足利氏の通字「氏」を名に持つかれは、12歳で兄が亡くなるまでは、嫡男としては育てられなかったためか、かなりおっとりした、欲の少ない人物に育ちます。俗にいう「いいひと」です。
彼には漢の高祖「劉邦」に似たところがあり、自説というものをほとんど持っていません。よく言えば、「将の将たる帥」なのですが、悪く言えば「人意見に左右されやすい人物」に育ちます。そして父貞氏が1331年に亡くなり彼が家督をつぎます。
彼は後醍醐天皇の最初の反乱、元弘の乱(1331年)では幕府方の副将格で参加しています。そして2度目の1333年の2度目の天皇の蜂起の時は、高氏自身病を得ていたのを北条家に参陣要請を受け、北条一族の名越高家ともに追討軍に加わります。そして名越高家が討ち死にした後に反乱軍側についています。 その直前でしょうか、高氏の妻と息子が鎌倉から逃亡し、鎌倉を目指し進軍していた、新田義貞率いる連合軍に参加します。ところで病気とは本当だったんでしょうか?高氏の行動を見ていると本当だったんじゃないかと思います。
その後、反乱軍に加わった高氏は京都六波羅を落とし、そこに駐留することになります。同時に新田義貞の連合軍も鎌倉を落とし鎌倉幕府は滅亡します。その時の恩賞の一つに後醍醐天皇の本名尊治より偏諱をもらい尊氏と名乗ります。不思議なのはこの「尊氏」という名前を南北朝の対立が始まって亡くなるまでずっと使っています。彼にとっては敵対しようが天皇からの偏諱は別物だったのでしょうか。
かれは「建武の新政(1334-1338)」の公家優位の政治から一歩引き、六波羅に居を構え、弟直義を鎌倉に置きます。そうすると武家の棟梁とみられている尊氏には、本人の自覚はなくとも反親政派が集まってきます。そうして天皇派との対立軸に押し上げられていきます。
その後弟直義が守る鎌倉に、北条氏の生き残りが兵を進めます「中先代の乱」です。尊氏は弟の救援に兵を率いて京を発ちます。
直義軍と合流して反乱軍を討伐した尊氏はそのまま鎌倉にとどまります。そして朝廷からの上洛命令を無視して、恩賞を配り始めます。この行動を朝廷は竃浦幕府を継ぐ反乱行為とみて、新田義貞を大将に尊氏追討軍を出発させます。
これに対し尊氏は断髪し、謹慎の態度を示しますが、直義や家宰の高師直などの劣勢を聞き、立ち上がり、義貞率いる征討軍を撃破し、そのまま京へと向かいますが、京は守りにくい地形のため、天皇派のかく乱戦術陸奥より遠征した北畠顕家(親房の子)の軍によって京都から落ち延びます。
そして落ち延びた九州で後醍醐天皇派の菊池武敏の軍を辛くも破り、反親政派は集めつつ上洛し、その道中に持明院統の光厳上皇の院宣をもらい受けます。
これによってその後の戦いは大覚寺統と持明院統による皇統争いの形になります。
その後湊川で楠木正成を討ち、京都に入ります。そして後醍醐天皇を京都に呼び、光厳上皇の弟光明天皇をたてますが、その直後、後醍醐上皇は奈良吉野に落ち延び、渡した神器は偽物であり、皇統は我らなりと宣言します。これより南北朝の時代が始まります。
南北朝成立までの尊氏の行動には一貫性がありません。お坊ちゃん気質もあったでしょうが、彼はビジョンがなかったんだと思います。ですから直義や高師直などの意見に左右されます。本当に征夷大将軍二なりたかったのかさえ解りません。
ただ彼の優柔不断さと甘さが様々な対立を生みだし、三代将軍義満の時代まで南北朝の対立を残したのは事実でしょう。
ある年の正月に将軍尊氏のもとに年賀に様々な人たちが土産をもって訪れます。それを尊氏は受け取るとその前に受け取った贈答品から、手ぶらではと与えたそうです。そうして年賀の挨拶が終わったときには、自分の手元には何も贈答品は残っていなかったと聞きます。
気前の良く我の強くない「見栄えの良い軽い神輿」だった尊氏は、足利宗家より配下の事を大事にしたため、室町時代は200年以上あっても混とんとした状況が続きました。
最後にですが、彼はおそらく「そう鬱」の気があったような気がします。そう考えないと、彼の行動は推し量り切れません。




