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歴史における通説と私見  作者: 鹿島三塁手
鎌倉末期から南北朝、なんでこんなにややこしい
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幕府滅亡までの過程

行動に実力が伴っていないというか。

 「正中の変」(1324年)後醍醐天皇は天皇中心の政治に戻そうと考え、鎌倉幕府に反旗を翻します。約100年前に後鳥羽上皇が行った「承久の変」と同じ王政復古政策です。

 後醍醐天皇は、側近を各地に派遣し、協力してくれる勢力を探しますが、その途中に、京にあった「六波羅探題(ろくはらたんだい)」(需給の乱の後京都に置かれた幕府の出先機関。西方や京都の監視だけでなく、警備や治安維持も兼ねる警察機関のようなもの)に謀議がばれ、計画は壊滅し、配下であった貴族が責任を一手にかぶり後醍醐天皇は事件への関与を否定し幕府は特に罪に問いませんでした。


 普通の人間ならこれで懲りるのですが、後醍醐天皇はさらに反幕府活動を続けます。

ですが幕府の御家人や守護などの武士は平安時代の皇居の警備員だった時代に戻ることを良しとはしませんので、誰も賛成してはくれません。そこで彼は考えます。「今の環境に満足していないものを取り込むのはどうだろう」


 その当時、幕府に不満を持っていたものは少なくありません。河内(現南大阪)の「楠木正成」(1294?-1336)はこのようにして選ばれたのでしょう。彼は、戦中教育に大いに利用されたため、彼は戦後のGHQの政策では軍国主義のの象徴とされ、ほとんど語られなくなりました。その為彼に対する評価は誇大すぎるものが多く、実像は掴みにくくなっています。彼の説明は次回以降にします。


 後醍醐天皇はその後はも討幕の意思を捨てたわけでなく、西園寺家の出産のために各地から派遣された安産祈願を名目に集まった、有力寺社との関係を深め「幕府討滅」を祈祷を行います。

 そして西園寺家では天皇の皇子、親王が生まれます。しかし次の天皇の有力候補は、後醍醐天皇の次に天皇につく予定の、兄の遺児、邦良親王が次期天皇の本命でしたが、彼は1326年に亡くなってしまいます。


 その後幕府の命により持明院統の嫡子「量仁(かずひと)親王が皇太子に立てられ、後醍醐天皇による親政計画は存続の危機を迎えます。そして後醍醐天皇は1331年二度目の討幕計画を計画します。

 しかしこの計画は天皇の側近とされていた「吉田定房(さだふさ)」の密告によりあっさり露見します。困った後醍醐天皇は様々な寺院に協力を求めますが、得られずに京都の笠置山に立てこもります。


 そしてこの笠置山の籠城には楠木正成も呼応兵をあげます。同年2月に天皇から所領を与えられたことが記録としてあるので、8月の籠城の頃には正成は天皇側とみられていたでしょうし、当然の行動ではあります。

 同時に天皇の第一子であり、天台宗の三千院にはいり門跡を継承し門主となり、その後天台座主てんだいざす(比叡山のトップ)にもなった「大塔宮護良だいとうのみやもりよし親王も呼応し兵をあげます。かれは天台座主になっても学問より武芸を好むという変わった人物でした。彼は6歳で出家しますが、彼の性格を好まなかった父の命とも、父後醍醐天皇が寵愛していた女性に嫌われてもありますが、天皇家の子供が出家すると、還俗しても天皇になれないので、彼は6歳でその候補から外れたこととなります。


 笠置山で8月に兵をあげた後醍醐天皇に対して、幕府は討伐軍を組織し、ひと月もしないうちに城を落とします。この討伐軍には北条家のものだけでなく、足利高氏、新田義貞も加わっています。

 後醍醐天皇は落城前に火を放ち落ち延びますが、後日捕まり隠岐の島へと流罪になります。楠木正成や護良親王も敗れ落ち延び、今回の蜂起は失敗に終わります。

 そして幕府は持明院統の「光厳天皇(こうげんてんのう)(1313-1364)を天皇にたてます。


 後醍醐天皇が隠岐流罪になった後も世の中は安定せず、落ち延びていた,大塔宮護良親王や楠木正成一党がかく乱をしながら各地を蜂起します。この時後醍醐(上皇)は伯耆の国で海運業を営む、名和一族の「名和長利(なわながとし)の助けを借り隠岐より脱出します。

 それに対抗するために11333年4月幕府は一門集である名越高家(なごしたかいえ)を対とし足利高氏ら御家人を配下に鎌倉から再度軍を出立させます。

 そのころ各地に幕府に対する反乱があちこちで起きます。そして足利高氏は鎌倉を離れた後に配下を遣わせて、妻や子(後の二代将軍義詮)脱出させます。その後総大将の名越高家の死後、南朝側に寝返ります。


 ほぼ時を同じくして新田義貞も鎌倉幕府に反旗を翻し鎌倉を目指します。そして途中の御家人を糾合し、高氏の息子義詮も形式上その軍団に加わります。


 足利高氏は後醍醐天皇側に寝返った後、京都の六波羅探題を攻めます。そのころには山陽道を公家将軍であった千草忠顕(ただあき)が京へ進軍し、播磨の「赤松則村(あかまつのりむら)」が幕府絵の反旗を翻し、周辺の幕府側勢力を撃破していきました。

 鎌倉は三方を山、南を海に囲まれた要害で、道も「切通し」というあえて通りにくい作りになっていたので新田義貞は考えます。そして海の潮の満ち引きから、海上から攻撃の届かない時間を狙い鎌倉内部に侵入。鎌倉幕府時は滅亡します。


 後醍醐天皇という一種の執念が生んだ幕府補崩壊劇でした。


 

苔の一念岩をも通す。というやつです。

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