鎌倉執権で最も〇〇なひと
北条高時この名前を聞いたときどのような印象を受けるでしょうか。
鎌倉時代の執権をみると、時政、義時、泰時、時宗と中々つぶがそろっています。大変変な状況で会っても努力し、様々考え行動する人がおおかった中にひとり大問題児がいました。北条時宗(1251-1284)の孫にあたる「北条高時(1304-1333)です。
彼は1304年、北条時宗の貞時の3男として生まれます。生まれたときにはもう祖父はおらず、彼は7歳にして成人します。
長兄覚久はその後、長崎光綱の養子になっていたので、おそらく母の名が不明だったことから、庶子として養子に出されたものとみられます。そしてその後出家し僧になっています。次兄の菊寿丸は4歳早逝します。
鎌倉幕府の執権職は必ず北条宗家が継ぐわけでなく、様々な状況によって北条一族の別家のものが継ぐことも多々あり、高時の成人した時も父はすでに執権を辞任し分家である北条師時が執権でした。
高時が成人しても父の不安は晴れず、後見役として内管領(北条家の執事長)長崎光綱の子「長崎円喜」(生年不詳ー1333)と高時の舅にあたる「安達時顕(1285?-1333)の2人をたて、1311年、高時9歳の時に亡くなります。
そして高時は父と同じ14歳になるまでに他の執権を挟み、1316年に執権となります。そうして各地で反乱が多発する中で1324年後醍醐天皇による「正中の変」が起こります。正中の変については次回以降に詳しく書きますので省略します。
その後高時は1326年に病のために執権職を辞し出家します。その後鎌倉幕府は1333年に滅亡します。
北条高時のことをよく知っている戦中の教育を受けた方は、高時がいかに暗君だったかを教育で知っていますが、それは太平記の記述が平家物語と同様に悪意に満ちており、高時を必要以上に悪者にし、後醍醐天皇の南朝側をひいきしています。それは太平記の最後が南北朝統一し北朝側に皇統が移った時点で太平記が終了しているため、南朝内もしくはそれに近いものの書いたものであろうと推測されます。
ここの表題であった〇〇とは、暗君ではなく不運と意味です。明治から終戦までの教育は南朝側を正統としそれを誇張して教育をされていました。ですが今につながる皇統は「北朝側」なのです。その矛盾は「大日本史」を編纂した水戸徳川家が、天皇家の永続性に気づいたことと、徳川家が南朝側である新田家の子孫と称したことにより、南朝をひいきせざるを得なかったことにあります。
そのすべてのしわ寄せが北条高時と言う人物に集約され「暗君の見本」のような書かれ方をしたことが、高時の最大の不運でしょう。
北条高時自身が実は最大の被害者であったと言えます




