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歴史における通説と私見  作者: 鹿島三塁手
鎌倉末期から南北朝、なんでこんなにややこしい
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南北朝のきっかけ、兄弟による権力闘争

今回はあまり歴史の焦点のあたらない南北朝時代についてです。

 皆さんは南北朝時代と言う時代をご存知でしょうか、戦前の教育を受けは人なら「|大楠公《だいなんこう》楠木正成や、「|バサラ(傾奇者の元祖)大名「佐々木(京極)道誉(どうよ)その他多くの英雄、奸雄入り混じっての時代。どの人物も2つの勢力に別れ離合集散を繰り返した時代です。

 しかしながら楠木正成を天皇の忠臣として、戦意高揚のために使った旧日本軍のため、戦後の反戦教育と共に彼らの存在はほぼ歴史の闇に葬られ、実態を知る人が少ない時代です。


そもそも何で「南北朝」はなんてできたのかのきっかけを話します。それは鎌倉時代「承久の乱(じょうきゅうのらん)」(1221年)にさかのぼります。細かい説明を省くと武家と公家の権力闘争です。そして武家側が勝ち、公家側だった後鳥羽上皇などが隠岐に流されそこでなくなります。その後朝廷は武家(北条氏)の顔色をうかがいながら生きます。


 「持明院党(じみょういんとう)とは鎮守府将軍「藤原基頼(ふじわらもとより)」(1040-1122)自宅に作ったお堂に「持明院」と名付けたことから彼の一族を持明院家と言ったことから始まります。その後彼のひ孫にあたる娘が親王の后となり持明院家に住みます。そして男子を出産します。

その後承久の乱が起き、後鳥羽上皇を中心とした反幕府の一党は流罪や左遷、当時の天皇陛下も譲位となります。そこで幕府はこの親王の子、「茂仁(もちひと)親王に天皇位をつがせ、後堀川天皇となります。同時に父には「大上天皇(だいじょうてんのう)(上皇)の位が贈られます。その後天皇の位を譲位した後堀川上皇、後嵯峨上皇、後深草上皇も持明院家を退位後の住み家としたので、後深草天皇から後小松天皇にいたる皇統を持明院統と言います。


 「大覚寺統(だいかくじとう)はこの持明院統から派生します。後嵯峨天皇が譲位し、息子の後深草天皇が即位し、院政を行います。天皇陛下の父親が政治の実権を握るという平安時代からの方法です。そして後深草天皇が16歳になったときに、彼の同母弟である「恒久つねひさ親王つねひさを皇太子とします。兄16歳、弟10歳の時です。そうして翌年(1259年)に父である後嵯峨上皇からの命により、亀山天皇が即位します。どこかで見たような光景です「保元の乱」のようです。

 その後、後深草上皇、亀山天皇ともに皇子もうけますが、この祖父である、後嵯峨上皇は、兄後深草上皇の子でなく、亀山天皇を皇太子とします。

 そして1272年に後嵯峨上皇が崩御しますが、次期天皇についての遺言がなく「幕府の意向に従うように」とありました。そうして幕府は、後嵯峨上皇の正室でり、後深草上皇、亀天皇のははである大宮院に事情を話し、どちらの言い分が後嵯峨上皇の意に沿うかを問うて、亀山天皇の方を支持し127年まで天皇位に在位し続け、皇太子の世仁親王(後宇多天皇)に譲位します。


 しかし納得のいかない後深草上皇は幕府に抗議します。それを幕府が受け入れよく1275年に後深草上皇の息子、「煕仁(ひろひと)親王(後の伏見天皇)を皇太子と認め、両者の子孫が交代で大体10年ごとに皇位を順番に継承し、その時の天皇の親が政治を行うという「両統迭立(りょうとうていりつ)」と言う形に収めました。

 この時の亀山天皇の子、後宇多天皇が京都嵯峨大覚寺にの再興とそこに居を構えたことから、亀山天皇の皇統を「大覚寺統」といいます。


 早い話が兄弟の跡継ぎ争いの結果、兄弟げんかをせず、双方で権力を交代しながら持つ制度と言う感じでしょうか。これの問題は、最初は兄弟なんですが、世代が変わるにつれ、従兄弟、はとこと関係が薄まっていくこと争いごとが起こるのですが、この時はまだ争いは起こっていません。


 以前に起こった、「保元の乱」や「平治の乱」の様に争いになるのですが、鎌村幕府に負けた事と、「保元の乱」で敗れ、隠岐で失意のうちに亡くなった。日本三大怨霊の一人「崇徳上皇(すとくじょうこう)」(1119-1164)の事がかかわっていそうです。

 崇徳上皇は院政を続けたかった父親に無理に退位迫られ、弟に譲位します。その弟は近衛天皇と言ったのですが17歳で亡くなり、その理由を「崇徳上皇のせい」といわれのない冤罪を受けます、そして近衛天皇の後を中継ぎと言う形で後白河天皇が継ぎます。そう、あの源頼朝でさえ「大天狗」といい、平清盛と共闘したり、対立したりした平安時代末期の大怪物です。

 その後状況をかき回すだけかき回した父、鳥羽天皇が崩御すると、「保元の乱」が起こり崇徳上皇は隠岐に流され、そこで天皇家を呪いながら亡くなります。当然朝廷は無視します。その後実害として1117年に比叡山が朝廷に無理を言って僧兵で脅しに来る、大火事が起こる(安元の大火)と共に、当時勢力を持っていた清盛一門に対するクーデター計画「鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)」と立て続けに起きており、またその前年の1116年には後白河に近い人物が立て続けに4人亡くなっています。

 これを隠岐でなくなった上皇の怨霊と考えた朝廷は「讃岐院(さぬきいん)}だった、贈り名を「崇徳院」と改め、怨霊を鎮めるために保元の乱の古戦場だった跡地に「崇徳院廟(すとくいんびょう)」をたてます。そして、彼の句として「恨んでない」いう和歌を記録に残します。


 「大覚寺統」も「持明院統」もあの二の舞は嫌だと思っていたはずです。ちなみにあと二人の怨霊は、「平将門」と「菅原道真」です。

 

朝廷っていつも兄弟で争ってる気がします

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