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歴史における通説と私見  作者: 鹿島三塁手
徒然閑話集
38/69

ー閑話ー なぜ日本人は坂本龍馬が好きなのか

なぜか好きな偉人の上位にいる彼

 なぜ日本人は坂本龍馬が好きなのか?よく好きな人物として名前の出る彼ですが、なぜそんなに好まれているのでしょう。「生き方がかっこいい」「薩長同盟や大政奉還などのアイディアマン」など言われる人もあると思いますが、その大部分は司馬遼太郎氏の著書「竜馬が行く」の影響を多大に受けています。そもそも龍馬の本名は坂本龍馬であって竜馬ではありません。ここに込められた意味は、この作品は坂本龍馬を題材にしているが完璧な史実ではない、フィクションも多く含まれているという意味で、龍の字を竜にしています。では実際の龍馬はどんなひとだったのでしょう。


 彼を語るときに外せないものとして「薩長連合」と「大政奉還」というものがあります。しかし「薩長連合」の提唱者は福岡黒田藩士の「月形洗蔵(つきがたせんぞう)」(1828-1865)と言う人物でその時代には広く提唱されていた「理想論」とされていたもので、何人、何十人と言う人たちが締結させようとして失敗した理論です。

 

 そこで龍馬は薩摩と長州の説得を同郷の中岡慎太郎と土方久元にまかせ、自らは「花より団子」と利益による両者の仲介を始めます。龍馬の坂本家は土佐で代々続く才谷屋のが郷士の格を買い分家としたのが始まりで、元を正せば商家の家系です。この辺は勝海舟の勝家に似ています。

 そして薩摩と長州に不足しているもの、長州は薩摩名義で武器を買い、薩摩は長州から米をその代わりに受け取るという作戦を使い。会談までセッティングしますが、両者ともメンツのために先に話を切り出せないまま過ぎていたところに、龍馬があらわれ、両者の背中を押す形で同盟が成立します。


 やっぱりすごいじゃないかと言われる人もいるでしょうが、龍馬は実務より仲介者、交渉者と言う面の強い人物です。勉強は苦手ですが他人から聞いた話を自分なりに解釈する力に優れた人物です。


 同様に「大政奉還論」も越前松平慶永公のブレーンであった「横井小楠(しょうなん)」(1809-1869)の受け売りです。横井は頭の良い人物で、外国に言った経験はありませんが、外国の政治制度などを聞いただけで、意味と有益性のわかるほどの人物でした。


 他にも幕閣の勝海舟や大久保一翁と面識もあり、月形洗蔵や土佐の学者河田小竜を通じ中浜万次郎(ジョン万次郎)とも面識があったと思われます。その知識の集合体が「船中八策(せんちゅうはっさく)」なのでしょう。

 そう考えると維新を見ずして亡くなった龍馬は、他の亡くなっていった浪士と共に歴史から消えていくのですが、あることがきっかけで龍馬の名前は再度歴史に現れます。


 1904年(明治37年)2月6日の「明治天皇の皇后の夢」というやつです。ある晩、夢に死に装束であった白い裃を着た人物が現れ、私は坂本龍馬と言う人物で海軍の事は大丈夫なので安心なされませ」と言って消えた。というものです。その当時の宮内大臣は田中光顕(たなかみつあき)という元土佐勤皇党で後に中岡慎太郎が率いた陸援隊の副隊長として、明治の動乱期を生き抜いた人物です。彼の叔父には幕末大和にて亡くなった那須慎吾がいます。この時はどんな時代だったのでしょう。



 1904年は2月8日から翌年9月5日まで「日露戦争」が起こっています。ちなみに当時の内閣は長州出身の桂太郎内閣です。閣僚を見ると陸軍と貴族院議員が多く、田中の名前は見えません。当時の宮内大臣は内閣には含まれず、今でいえば宮内省の侍従長でしょうか。思いっきり閑職のように見えます。


 当時の軍隊は「陸の長州、海の薩摩」と薩長に牛耳られています。何となく話が読めてきました。日露戦争での日本は海軍がロシア艦隊に勝てるかどうかがカギとなっていました。そこで明治天皇の皇后が6日の夜に「浪人の出てくる夢を見た気がする」と田中に伝えます。だいたい夢なんてはっきり覚えているものじゃないです。

 そして田中は考えます。『今の国の重要問題はロシア海軍に勝てるかどうかで、その理由が欲しい。海軍大将の東郷平八郎(とうごうへいはちろう)の推薦理由だって「彼は運がいい」というものだ。この際ゲンを担ぐ形で幕末の誰かが、日本海軍の守護をするという話にしよう。幕末で海戦で有名な高杉晋作は長州だ。今の内閣に箔をつけるのも悔しい。とすれば土佐で海、陸援隊の隊長だった中岡慎太郎さんの友人で同時に暗殺された海援隊の坂本龍馬ならこの条件に合う、そうしよう。』なんて考えたのかもしれません。実際龍馬はは明治24年に(1887年)に正四位を追号(亡くなってから官位を与えること)されています。


 桂内閣や海軍にしても、石にかじりつてでも艦隊戦の勝ちが欲しかったので、この話は大々的にプロパガンダとして発表されたでしょう。明治38年(1905年)5月27日からのロシア、バルチック艦隊との海戦で日本海軍は勝利します。噓から出た(まこと)で龍馬の存在がクローズアップされます。

 龍馬の師である勝海舟は1899年に、彼と共に海援隊を過ごした「陸奥宗光(むつむねみつ)」(1844-1897)に亡くなっていましたが、その二人共通するのは多弁であり、よく龍馬の話をしていたことから、逸話が多く残っていました。逆に中岡に近かった西郷(明治10年没)や桂(明治10年没)は無口でしたので、中岡の記録は多く残っていません。ただ土佐時代の逸話から中岡の生真面目さはうかがえます。


 そして戦後、歴史研究家でもあり、作家の司馬遼太郎が「龍馬がゆく」を執筆し、龍馬ブームが起こります。その後もドラマチックな彼の生涯を描く、作品が多くみられ、彼が筆まめで130近い手紙が残っているため(勝の影響かかなりいいかげん)著作のネタに困らないというのが実際のところでしょう。



情報量が多く仮説も立てやすい自由人。そりゃ私でも書きますわ。

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