表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
歴史における通説と私見  作者: 鹿島三塁手
第3章 本能寺の変と謎の記録
34/69

私見 本能寺の変 トンビに油揚げ猿に…

計画の漏洩を悟った家康の行動とその後です。

 前回は、本能寺の変に対する私なりの考察と推理をし家康の帰国まで書きましたが、本能寺の後天下を取ったのは秀吉でした。そのあたりについての考察をしていきたいと思います。


 岡崎に帰った家康のもとには恐らく秀吉からの書状が届いており、すぐに京へ戻ることが予想できる内容だったと思われます。また同時に織田家中に各将にも同様に手紙送られているであろうことも予想したでしょう。ですから家康は動くことができず、山崎の合戦の秀吉勝利の報を聞いたのちに、南信濃、甲斐の奪取に方向転換したのでしょう。

 稲葉一鉄にとっては、自分度同時に蜂起した元同僚の安藤守就を討ち取ることで、アリバイ作りをしていたように見えます。ではどうしてこんなに早く秀吉は帰ってこれたのでしょう。


 細川藤孝は、本能寺の変でも関ヶ原の戦いでも必ず勝つ方に参加しているので、運が良い、もしくは勝馬センサーがあるなどと言われていますが、そうではない気がします。「彼が参加した方が勝つ」のではなく「彼が参加した方を勝たせていた」からです。


 関ヶ原の戦いで西軍が用意できた戦力は実はもっと多く、その戦力は東の本多、西の立花と呼ばれる武将立花宗茂(たちばなむねしげ)率いる1万5千が大津城(坂本城の廃城の後に建築)の京極高次を、もう1万5千が田辺城(現京都府舞鶴市)の細川藤孝を攻め、3万の軍勢が関ヶ原本戦に不参加でした。その中でも立花宗茂は重臣が東軍につくよう進言しても「太閤殿下の御恩に報いるため」と、頑として西軍を貫いた武将です。彼らがいれば関ヶ原の歴史は変わっていたかもしれません。


 では本能寺の変での細川藤孝はどうでしょう。明智家と細川家は姻戚関係にあり、その付き合いも朝倉家の頃からのものだったでしょう。そして足利家を辞して織田家に仕えたのも同じで、光秀にとっては同僚であり、友人だったでしょう。

 しかし藤孝の側から見れば、自分は足利家代々の幕臣であり、格下であった光秀が出世してゆき、自分が光秀の与力とされたときどう思ったでしょう?絶望でしょうか、憎悪でしょうか?


 何故細川家が怪しいのかと言えば、山崎の戦い後の清須会議にあります。この会議で細川家は、明智に味方しなかったことで、丹後一国を領土とします。その時の秀吉からの但し書きに「ただし加増分の3分の1は松井康之のものとする。」というものがあります。そう鳥取城の戦いで秀吉の援軍として参戦した水軍武将です。

 彼から徳川、明智らの謀反計画が史実よりもっと早く、秀吉軍にもたらされていたとしたら状況は変わります。何度も交渉していた安国寺恵瓊を通じて、小早川隆景に接触します。そして信長に援軍要請をしたことと、信長の真意である毛利の討伐と、このままでは毛利が滅亡するであろうことを告げます。そして上方に起こるであろう大事変をにおわせます。そうして変の一報を知ったといわれる6月3日以前に軍を徐々に撤退させ、自分や重臣右筆などは小早川の指示により瀬戸内の領海権を持つ村上水軍に姫路まで船で送らせます。これによって船で移動中の秀吉たちは各方面向けの手紙を書くことができ、体力的に消耗するすることなく、撤退が完了します。

 ちなみに信長の右筆だった松井有閑は本能寺の変後堺にて家康と一緒にいた人物であり、その後本能寺の変を堺の町衆にそれを伝えた人物です。その後秀吉に接近し堺の代官として存続を許されますが、1586年に突如罷免されています。本能寺の変時に家康の片棒を担いだとみられたのでしょうか。


 こうすれば、9日に姫路を出立した秀吉軍が、その晩に毛利の支配域である洲本を手にした謎も解けます。直接毛利から割譲されたのですから。

 秀吉の撤退後に本能寺の変を知った隆景の兄、吉川元春が和平を反故にし攻めあがるべきと、隆景に言ったのを隆景が抑えたのもわかります。信長の死がなければ毛利家の滅亡もありえたからです。

 そして翌1583年に毛利側から人質が出された時に秀包が優遇され、広家が即刻帰国になった理由もわかります。小早川と秀吉との密約について不平を言ったからでしょう。当時の広家は当主でも手を焼くほどの悪ガキだったのですから。


 そして清須会議の後、美濃は織田信孝の領地(兄信忠と入れ替わる形で)となり、稲葉もその与力とされますが、秀吉と誼を通じることとなります。これは一鉄の孫の福の事だけでなく、本能寺の変の暗躍をも指していたとするなら、隆景亡き後の小早川家を継いだ秀吉の甥秀次に、一鉄の庶子重通の娘婿を強引に引き抜いたことは稲葉家にとっては十分な当てつけと取られたでしょう。

 

 その後は史実通りに事が運び、秀吉は天下人での階段を駆け上っていきます。その途中秀吉は征夷大将軍の座を狙い、足利義昭の養子になるための交渉をすげなく断られています。彼が本能寺の変にかかわっていたら、そんなことは言えないでしょう。その代わりに秀吉は近衛前久の猶子(ゆうし)(相続権のない養子)となり藤原家のものとなり、関白になります。前久はかかわっていたから拒否できなかったのでしょう。秀吉にはその後、豊臣の姓を与えられ、源平藤橘(げんぺいとうきつ)と同格とさせます。

 山崎の合戦で自刃したとある明智秀満もしくは光秀の子光慶はどこかの寺に入り、秀吉の死後1599年に天海として徳川家康のブレーンとなり、斎藤利三の子斎藤福を嫡孫にあたる家光の乳母とし、稲葉正成も小早川秀秋の死後、浪人していたのを取り立て、彼と福の子は家光、忠長兄弟に小姓として付け、稲葉家が外様でありながら譜代並みの扱いになった理由かもしれません。


 秀吉の死の直前に五大老とされたのが、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景(彼の死後上杉景勝)、そして徳川家康です。毛利、小早川は本能寺の時のつながり、宇喜多は先代(直家)の死後に前田利家の実子で秀吉の養子である豪姫の夫となり婿養子となったものであり、前田利家だけが尾張時代からの友人であり信用できる人物だったでしょう。

 逆の徳川家康は織田信長の仇であり、同時に自分を天下人に押し上げてくれるきっかけを作った人物です。その家康に後事を託さざるを得なかった秀吉の心情はどんなものだったのでしょう。

猿とタヌキの化かしあい結局最後に笑ったのは誰でしょうね。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ