私見本能寺の変 決行と計画の崩壊
伊賀越えは本当に可能だったのでしょうか。
一方明智光秀は武田滅亡後にどう考えていたでしょうか。当面の敵がなくなり、落ち着いたとこでの接待役です。失敗は許されない状況ですから、徳川方からの下交渉の要請は当然受けたでしょうし、自分も家康と同じような立場にあると思ったかもしれません。当時の光秀の年齢は書物によってまちまちですが、55歳、67歳、70歳と諸説ありますが、老境にあったのは事実でしょう。そして不安になったかもしれません。そうなれば、家康とは利害が一致します。
当時信長は三職推任問題で朝廷のある京都に近々に行かなければならない状況にありました。警備の厳重な安土城を離れるのです。
そして徳川明智の中間点に位置し、美濃にいる稲葉家を巻き込むことです。斎藤利三は元稲葉家の家臣筋で、その娘福の母は稲葉一鉄の娘で、自身は一鉄の孫にあたります。そして近江周辺の信長に恨みのある武将、若狭武田や阿閉、京極等に声をかけ、一色(斎藤)義龍の同母弟利堯を立て一色家の再興を旗印として明智に稲葉と徳川が合流する。そして朝廷を通じて一色利堯に征夷大将軍に任命してもらい、徳川、明智、細川、稲葉を重臣とした新政権を作るという計画です。
いきなり征夷大将軍というのは無理のように見えますが、朝廷のコントロールの利かない信長より朝廷の支配の中に取り込める新政権を選すというのは、おかしな話でしょうか?
下手をすると三職就任問題すら近衛前久を使った徳川、明智が黒幕のブラフであった可能性もあります。
計画多くに漏れるのはまずいので、事前に話をするのは縁戚の細川藤孝だけにし、筒井には光秀の変の決行の数日前に連絡し、兵を出せる状態に指示をしておく、そんな計画だったとします。
慎重な家康は念のため信長からの暗殺に備え四天王と伊賀甲賀に顔の利く服部正成を同行させ、穴山梅雪と共に安土に向かいます。到着後の5月15日から接待を受け、穴山梅雪の信長への謁見も滞りなく終了した、5月17日に信長に秀吉からの援軍要請があり、接待役であった光秀は秀吉への援軍の一陣として出陣を命じられます。そして接待を受けた家康一行は21日に京へ向かいます。これも家康が事前に「京都、堺を回って戻る」と言えば、信長は否とは言わなかったでしょう。
しかし家康は秀吉からの援軍要請に違和感を持ったかもしれません。「計画が漏れているのか?」と。
その後光秀は25日に坂本から出陣し、愛宕権現などを回り、予定通りに6月の2日未明に本能寺に討ち入ります。なぜ光秀が本能寺に信長がいると断定できたのかと言えば、前日の6月1日に信長が本能寺にて近衛前久、勧修寺晴豊ら40人近い公家を招待し、大名物の茶器を使った茶会を催しています。そうであれば、近衛前久辺りから確実な情報を得ることは可能です。
そして家康は6月2日の昼に本能寺の変の一報を知ります。その時は穴山梅雪とあえて別行動にし、先にを伊賀を超えて岡崎に帰ることを、梅雪に人を遣わせて伝えます。そうすれば穴山梅雪は取るものもとりあえず、家康の後を追うでしょう。しかし道中、服部正成の命を受けた忍びか、伊賀の土豪の手により命を落とします。
家康は武田滅亡時に武田水軍(旧今川水軍)を配下にしています。ですから安土で暗殺未遂があって逃げるように、堺に駿河から船を事前に派遣しておく事ができます。そうでなくとも、服部正成配下を使い、堺をかく乱状態にし、四国遠征軍が混乱しているすきに、当日堺にいた九鬼水軍頭目九鬼嘉隆にはなしを付け海路岡崎(伊勢白子)に向かいます。
すると家康は安全なルートを船で移動でき、年齢も近く、肖像画を見る限り体系も小太りであった穴山梅雪を粛清するのと同時に自らの影武者として、「神君伊賀越え」の伝説を作り上げることができます。
しかし家康が6月4日(7日説あり)に岡崎にたどり着くと、秀吉からの書状が来ていたはずです。それで家康は、山崎の戦の翌日の14日まで動けなくなります。
動けないはずの秀吉の行動によって、計画の漏洩が確実になります。




