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歴史における通説と私見  作者: 鹿島三塁手
第3章 本能寺の変と謎の記録
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私見 本能寺の変の動機

 ここからは、今まで書いた事から私なりに推理し導き出された仮定の話です。

 ここからは私見によって、本能寺の変を分析したいと思います。


 本能寺の変の実行者が明智光秀だったのは間違いありません。ですが彼に呼応して動いたのが、安藤守就や元若狭守護の武田元明(京極高次の妹、竜子の夫)の他に阿閉貞征(あつじさだゆき)京極高次(きょうごくたかつぐ)(1563-1609)とあります。本能寺の変の後の高次はその後各所を転々とし、柴田勝家に保護されて、武田元明死後に秀吉の側室となった竜子のとりなしによって、大名に復帰しその後浅井三姉妹の次女初を妻に迎えています。女性に甘い秀吉だとしてもかなり破格の優遇です。京極家は足利尊氏の時代、近江の大名佐々木道誉から続く名家です。それを配下に置き、義兄弟となることで伯をつけたかったのでしょうか?

  

 今まで見た中で大物、大名級の人間はおりませんが、4日に本拠地から動き始めた筒井順慶は、途中まで光秀派であったと思われます。それでも信長を討ち取った後に生き残れそうには見えません。

 その当時公家の山科言経(やましなときつね)が「言経卿日記」という文書を残していますが、なぜか6月5日から12日の間の記録が抜け落ちています。何か都合の悪い記録があり、それを抹消したものと考えるのが妥当でしょう。


 本能寺の変から光秀の行動を逆にたどってみましょう。27日に愛宕権現(あたごごんげん)に参拝し、連歌の会を開き、3回もおみくじを引いて、その後丹波亀山城に戻っています。この行為はどちらとも心を落ち着ける行為だったと推察しますが、愛宕権現とはなんでしょう。始まりは奈良時代の役行者小角えんのぎょうじゃおずぬにつながる修験道の聖地で、江戸時代には盛んに信仰され、分社が日本各地に作られていたそうです。そういえば、家康は死後東照大権現とうしょうだいごんげんと呼ばれていましたね。西の権現が愛宕権現で、東の権現が家康偶然でしょうか?


 27日以前は25日に坂本を出立し、その前は安土で家康の接待役の準備をしています。当然接待役ですから相手側の人数や名前など徳川家と綿密に相談しておかなければなりません。そうなると手紙もしくは双方の代理が会合を行い細かい調整をしておかないといけません。相手の苦手なのもがあったり、予想外に人数が多いと問題になるからです。


 一方接待される側の家康ですが穴山梅雪の同行は武田討滅の功労者としての顔見せという意味だけだったのでしょうか。同年3月11日に武田を天目山にて滅ぼし、そのねぎらいとして、家康一行は安土に招待されています。信長に他意はなかったのでしょうか。

 織田信長という人間は敵対者には厳しいですが、身内や寄ってくるものには優しく、秀吉の妻、おねから秀吉の浮気の相談を受けたときも、おねに対し「おまえが昔より美人になってることに驚いた。秀吉の行動は本気ではなく、ちょっとした火遊び見たなものだから、でんと構えて嫉妬などしないほうがいい」という手紙を返しています。また家康には娘五徳の嫁姑問題から、家康の嫡男信康、正妻築山殿を失わせた引け目もあり、長年の同盟者である家康に対しても身内と考えていたでしょう。


 逆に家康側から見るとどうでしょう。武田の滅亡と、1580年に北条氏政の織田家への従属要請と武田滅亡後に北条、織田間に婚姻関係が結ばれる話が進行していました。徳川家は気づいたら四方に敵がいなくなっています。

 その上、1580年に織田家の重鎮である林秀貞(はやしひでさだ)、佐久間信盛、信栄父子が林は尾張時代に弟の信行(または信勝)についたこと、佐久間には本願寺攻めで功がなかったこと(佐久間信盛は一度手紙で秀吉や光秀を見習えとはっぱをかけられていました)が理由で、織田家を追放処分になります。

 

 臆病で、祖父清康、父広忠を暗殺されている他人を信用しない(自分で薬を調合し服用していたほど)の家康は「狡兎(こうと)死して走狗(そうく)|烹《に》らる」次は自分だと考えたとしても不思議ではありません。

 同時に織田家に目を向け、同様の立場の人間がいないかを見極めると、近畿近衛師団格の明智光秀が目に留まります。彼も四方を味方に囲まれ、友好交渉を続けていた長曾我部家が織田家から攻められる立場になり、立ち位置が不安定になっています。

 そして安土での歓待の下交渉を行うことで、部下が交渉していても不自然でない状況が出来上がります。家康は安土にての暗殺を恐れたのでしょう、ですから4天王全てと、諜報部の服部正成を同行させたと考えるのは家康らしい行動です。


家康の用心深さ、人を信用しなさは幼少期の経験なんでしょうかね。

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