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歴史における通説と私見  作者: 鹿島三塁手
第3章 本能寺の変と謎の記録
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信長の三職就任問題

本能寺の変直前にあった問題で当事者がなくなっているので結論は出ていません。

 1582年公家の観修寺晴豊かんじゅうじゅはるとよの日記に4月25日と5月4日の事柄として記載されている記録です。


 織田信長が1578年に右大臣兼右近衛大将を辞任します。その後朝廷からの再三の官職就任要請を断り、彼の肩書は従二位前右大臣のままでした。1582年3月に武田家滅亡に追いやり、北条家も織田家に従属し婚姻を進めてしているときに、朝廷は危機感を持ちます。「このまま信長が全国を統一したら、天皇を中心とする朝廷はどうなるんだろう?」と。


 実際朝廷は1581年での京都の馬ぞろえ後に信長に対して左大臣就任を打診していますが断られています。


 そして1582年5月に朝廷側の使者として観修寺晴豊が京都所司代(きょうとしょしだい)村井貞勝(むらいさだかつ)のもとを訪れます。そして信長が望むなら三職(太政大臣、関白、征夷大将軍)のいずれでも授けると朝廷から提案があった、とあります。

 

 この就任問題が信長側から出たものか、朝廷側から出たものかは、信長も村井貞勝も本能寺の変によってなくなっているので解らないが、当時の信長政権が朝廷の権威を必要としていなかったものであるので、足利義昭の将軍就任時に打診された、副将軍も管領職も蹴って、その後足利幕府を京から追い出した例もあるので朝廷側が恐れてというのが妥当かもしれません。


 なせ幕府滅亡と言わないのかと言えば、足利義昭(1537-1597)が将軍職を辞任せず生存中であり、備後の国(とも)(現広島県福山市)に小規模ながら幕府という形で毛利家の庇護のもと存在していたからです。



 そのような幕府の例もあり、おそらく朝廷側が打診したものと思われますが、この時信長がどんな返事を仕様としたのかはわかりません。ただ朝廷側では2月に太政大臣に就任した|近衛前久《このえさきひさ》が5月に辞任しているので、太政大臣就任を暗に示唆していたようです。


 その後信長は返事を先延ばしし、5月17日に秀吉から毛利討伐の援軍を頼まれると、明智光秀を徳川家康の接待役であった明智光秀を第一陣として派遣し、その後に自らも軍を率いて一気に毛利討伐を行う意気込みでした。

 信長の真意は何だったのでしょう。

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