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歴史における通説と私見  作者: 鹿島三塁手
第3章 本能寺の変と謎の記録
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光秀と天海

 よく時代劇などで言われる説です。しかし煙のないところに火は立ちません。少し検証してみます。

 今回はよく言われる光秀―天海説について、考察してみます。

 これは春日局こと斎藤福が天海と初対面したはずの時に「お懐かしゅうございます」と言ったという話があり、それを元にしてのものです。


 この説は昔からあり、比叡山になる1615年に寄進された光秀という名。日光にある明智平という地名、日光東照宮にある桔梗紋、京都慈眼(じげん)寺にある光秀の木像と肖像画(非公開)と、天海の法名慈眼大師の名。まあ確かに同一人物とも言いたくなりますね。しかし私には本人であったなら、1615年以降名前を隠す必要性があったのか?という疑問を感じます。逆に彼に非常に近い人物か、大きな恩のある人物のような気がします。


 そもそも光秀の首実検をしている秀吉が見間違えるでしょうか?偽物なら探し続けたでしょう。太閤記やその他の作話を読むと秀吉は明るい好人物に言えますが、織田家で同僚だった人物に「俺は信長のように甘くない」と言ったり、甥の秀次に連座したと言って、古くからの家臣を切腹に追い込んだり、かなり高圧的な政治態度を取っています。ですから光秀の首はほぼ間違いなく本物でしょう。


 光秀に近い人物で、最期がよくわからない人物がいます。ひとりは山崎の合戦の後一族を集め屋敷に火をつけ自害したという人物(焼死なら身代わりも可能でしょう)。もう一人は手紙や文書に名前があるのに1582年を境に消息がなくなり、その死の様子も不可思議なものしか伝わっていない人物です。


 その二人とは前者が光秀の娘婿であり筆頭家老格の「明智秀満(光春)」、後者が光秀の息子「明智光慶(みつよし)」です。どちらも明智光秀に近い人物で、この二人のどちらかなら天海の行動として不自然でないと私が思う人物です。

 天海が108歳で亡くなったという言葉が正しいなら、実は秀満も同じ1536年生まれと言われており、辻褄が合います。光慶なら年齢は1569年生まれで74歳でなくなる計算になりますが、1582年に3歳の斎藤福に会う可能性のある人物としては、不思議ではありません。天海が歴史に名前を残すのは、1599年と秀吉の死の翌年であり、17年間どこかに隠れ住み、秀吉亡き後に江戸に召喚されたというのは不自然でしょうか?


 この仮説を書いているときに、光秀の謀反の理由、そこまでに至る状況を多く読みましたが、秀吉時代に書かれたものは、野望説が多く、なぜか江戸時代に書かれてものは、怨恨説など同情的なものが多い。この差異は何なのでしょうか。誰かが意図的に同情説を流したのでしょうか。

 




 こう考えると江戸時代に書かれた書物で、|山鹿素行《やまがそこう》など徳川家の御用学者でさえ明智擁護の文書を残している理由にならないでしょうか。

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