家康の伊賀越え
俗に言われる「神君伊賀越え」というやつです、これも日時がまちまちだったり、踏破距離が山道中心で200KM近くあったりとものすごいものです。
本能寺の報を聞いて真っ先に動いたのは誰でしょうか?実は徳川家康です。当日である2日の昼には行動を起こしています。
本能寺の変の時の家康一行は、武田討伐時に功のあった穴山梅雪(1541-1582)と共に信長の歓待を受けた後の堺遊覧中でした。
2日の昼に堺を遊覧していた家康に、本能寺の一報が届きます。その時に家康は混乱し京へ信長の仇討ちに行くと言い家臣に止められ、伊賀を超えて岡崎に帰ることとなります。そのルートは3日に近江甲賀山川に一泊してから伊賀に入り一気に伊勢に抜け伊勢から船で6月4日にたどり着いたというものです。
ちなみに穴山梅雪は家康と違う道を通ったためか伊賀で襲撃にあい亡くなっています。これが一般的に流布している「神君伊賀越え」です。
上記のルートを〇〇マップで現堺市役所から滋賀県|甲賀《こうか》山川まで徒歩でルート検索をした結果、74.2kmで約16時間かかることがわかります。つぎに山川から四日市市白子までが59.7km徒歩で12時間半です。次に白子から船に乗ったとして、熱田から桑名までの七里の渡しが干潮と満潮の差をいれて3~4時間でしたので、渡し船なら1時間に9kmほどとなり、白子から岡崎城までの距離が50kmほどですから4,5時間となります(商船や軍船ならもっと早かったかもしれません)となると四日の踏破距離は110kmを陸路海路を16時間ほどで踏破したことになります。
これについてルイスフロイスは「家康は連れていた兵も多く、金も十分持っていたのでだいじょうぶだったが、梅雪は金や物品も多くなかったので、殺されたのだ」と手紙に書いていますが、これ自体が自分の目で見たことでなく伝聞でしょうから信用性は薄いです。ただ、家康と梅雪が別行動をしていたというのがわかります。
ちなみに伊賀越え時家康に付き従った家臣ですが、これは34名(穴山組を除く)と、少数ですが、酒井、榊原、本多、井伊の四天王に、大久保忠佐に渡辺守綱に服部正成(祖父が伊賀から三河につかえる。甲賀、伊賀忍者を統率する)など逆に留守の領地が心配になるほどのメンバーです。
4日(7日説などあり)岡崎にたどり着いた家康は、14日になってやっと軍を動かします。最大10日の時間があったのに、家康は理由をつけ14日まで動いていません。何があったのでしょう。
14日まで動かなかったこと、記録の日付がまちまちなことと、ここにも何かが隠れているようです。




