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歴史における通説と私見  作者: 鹿島三塁手
第3章 本能寺の変と謎の記録
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本能寺の変以降 稲葉家編

稲葉一鉄は本能寺の報を聞いてどう思ったのでしょう。

 6月2日早朝に明智軍による本能寺の変が起こると、織田信忠(のぶただ)(1555-1582)、斎藤利治(斎藤道三の子であり正室小見の方の子)も同時に亡くなります。


 その報告は美濃には6月4日に伝わり稲葉一鉄(1515-1589)は、甥の斎藤利堯(としたか)(生没年不詳)斎藤利治の城代にて斎藤道三の庶子をたて、美濃各地を掌握します。当時美濃にいた宣教師の「グレゴリオ・デ・セスペデス」のフロイスへの報告において「岐阜において太子(信忠)の宮殿(岐阜城)が略奪され、諸侯の一人(稲葉一鉄)が占領し、いずれにつくかは明言しなかった」とあります。

 

 この時旗頭とされた斎藤利堯は斎藤義龍と同母弟でした。ちなみに斎藤義龍は織田信広などと同様に長庶子でしたが、道三が嫡室子である利治を後継ぎとするのが遅かったため、義龍に討たれています。義龍が土岐の血を継いでいるという風評を意図的に流し、美濃経営を円滑に行う方針だったようですが、噂がその後独り歩きをし、それがもとでなくなるというのは、なかなか運命の皮肉ですね。


 その後、織田家から追放されていた安藤守就を討伐し、東濃では上杉討伐中だった森長可(ながよし)(1558-1584)が8日に変の報を聞き16日に海津城か撤退、24日に退却を完了してます。

 山崎の戦いが6月13日で秀吉が京から移動し始めたのが20日ありますから、2日からの10日間なぜ稲葉一鉄は動かなかったのでしょうか。


 その後の稲葉家は秀吉の配下として戦い、一鉄の庶子である重通で娘婿であり、その死後斎藤福を後添えとした稲葉正成は、秀吉の命により、1594年に平岡頼勝(よりかつ)(1560-10607)と共に小早川家を継いだ小早川秀秋(秀吉の甥であり養子)の付け家老となります。小早川秀秋が1602年に亡くなり、その2年後に2人とも徳川家に仕えているので、彼ら2人が小早川裏切りのキーパーソンだったことは予想に難くありません。


 一鉄の嫡子である稲葉貞道は関ヶ原の合戦中に東軍に寝がえり、嫡流の稲葉家は幕末までしますが、重通の実子である|通重《みちしげ》、道通(みちとお)の家系は江戸時代になって改易にあっています。

 ちなみに斎藤福の子正勝は家光に近習し、その子孫は徳川家の譜代に近い扱いを受けます。またその弟の正利は家光の弟忠長に仕え、その亡き後は肥後細川家預かりとなりますが、かなり自由の利いた立場だったようです。

明智と稲葉、そして徳川なぜこんなに親しいのでしょう。

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