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歴史における通説と私見  作者: 鹿島三塁手
第3章 本能寺の変と謎の記録
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秀吉の大返しから山崎の戦いまで

この中国大返しには何かが隠されている気がします。

 柴田、丹羽、滝川などの重臣が動けない間に、電光石火の行動で動けた武将がいます。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)です。彼のもとに信長の凶報が届いたのは6月3日の夜半と言われています。美濃にいた稲葉一鉄が6月4日に上野にいた滝川一益の7日、越中の柴田勝家のもとに6日についたといわれる凶報の中でも圧倒的に早くわずか1日半でついています。


 そして情報封鎖を行い、その日のうちに毛利家の外交僧である安国寺恵瓊(あんこくじえけい)(1639?-1600)を呼び出し、交渉を行います。備中高松城主の清水宗治が切腹、備中、美作、伯耆の3か国の毛利の放棄とすること、後日人質交換されることで交渉が締結し、4日の午前に清水宗治の切腹をもって、秀吉軍は撤退しはじめ、6日もしくは8日に姫路城に帰還し、9日に京へ向けて進軍を始めています。

  しかしこの日付も記録ごとに違ったり5日に摂津の中川清秀あてに「信長公、信忠殿は健在」という手紙を送り、6月10日には沼城(岡山県岡山市)につくだろうという書状も残っています。じゃあこの手紙はいつどこで書いたものでしょう?どうも秀吉は様々な書面や記録を操作し、「中国大返し」をかく乱しているように見えます。しかし9日に姫路城出立以降は記録の齟齬も見られず、秀吉は兵庫、明石、西宮と進み12日に摂津高田(現高槻市)に到着します。

 

 その後、秀吉の陣に池田恒興(信長の乳兄弟)、中川清秀、高山右近らとともに、織田信孝、丹羽長秀が合流しよく3日の山崎の戦を迎えます。


 なお毛利家からの人質として1583年10月に人質、吉川広家と小早川秀包が差し出され、秀吉側から森重政、高政兄弟が人質として交換されました。秀吉との対面後、秀包は気に入られ最終的には独立した大名にまでなりますが、広家は気に入られなかったようで11月には毛利家に戻されています。

 その吉川広家が関ヶ原の戦いの時に東軍と領土安堵交渉をおこない、戦後毛利家の大減俸を招くのですから、秀吉が広家を好まなかった理由も何となく予想がつきます。ちなみに広家は毛利家の養子縁組政策の一環として、石見小笠原家からきた広家の縁組要請(1582年)を、当主輝元に断られています。なかなかの問題児だったようです。


 最後に私なりの秀吉評にてこの項を終わりたいと思います。彼は自分より上と認めたもの、織田信長や、小牧長久手で勝てなかった徳川家康などに徹底して下手に出ます。これは本能寺以前にも当てはまり、目上である丹羽長秀などには同様に下手に出ます。それに自分と打算で付き合わない前田利家や蜂須賀正勝には友人として同じ目線で付き合います。

 しかし自分より、格下のものには厳しく、初期の羽柴四天王と言われた、戸田、尾藤、宮田、神子田は討ち死に朝鮮からの船の中で客死はましな方で、追放され病死や、復帰の嘆願に来たところを惨殺するなど、その生涯をまともに全うしていません。家族であっても家康と和睦するために、妹を離縁させ、母も人質にだす。甥にあたる秀次を切腹に追い込んだ時も、蜂須賀同様に古くからの家臣であった前野長康も連座にて死を与えるなど容赦がありません。

 また自分の脅威となりえる人物である家康は関東に、蒲生氏郷は会津に転付とし、功労者であった、丹羽長秀や蒲生氏郷の死後は、息子の代に領地をごっそり削っています。低い地位から出世をしたためのコンプレックスがあるのでしょうが、自分の地位を守ることに必死な様子が見て取れます


秀吉に好かれなかった、吉川広家と、後継ぎになれなかった小早川秀秋、この二人が関ヶ原の命運を握るとは不思議なものです。

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