明智派とみられていた細川、筒井氏の動向
織田家は与力と寄り親という制度で師団長の暴走を監視していました。
次に明智軍の与力とされていた武将の動きです。
細川藤孝(1534-1610)は嫡男忠興の正室に光秀の娘である玉(後のガラシャ)を貰い、姻戚関係にあります。それに足利義昭が朝倉家に落ち延びてきた時から、関係があるようで、義昭が信長に乗り換える時の連絡係が光秀であり、1580年細川藤孝が丹後の一色氏を攻める時も、単独で攻めきれなかった細川軍に協力し、藤孝はその後丹後南半国の宮津城主になっています。
次に筒井順慶(1549-1584)です。かれは大和の国の武将、筒井順昭の嫡男として生まれますが1550年に父が病死し、叔父の筒井順政の後見の元成長します。しかし三好軍の大和侵攻を受け、叔父の死後である1565年に失領します。順慶はその後の三好家の内部対立もあり翌年大和に復領します。その後は明智光秀のあっせんもあり1672年正式に織田家の家臣となります。その後順慶は1675年に織田家から嫁を貰います。信長の妹もしくは娘だったようです。その後1677年松永久秀の織田家からの謀反に対し軍を出し松永を滅ぼしています。そして順慶は1580年信長から大和一国を任される(光秀の進言という説あり)こととなります。
ここまで見る限り、明智との縁の深い細川、筒井が明智派とみられたのは当然であり。本能寺の後も協力して貰えるように見えます。細川氏、筒井氏はその当時は光秀の与力として、光秀の軍団に組み込まれています。ここでいう与力とは師団長の部下ではなく、信長より付けられた増援、師団長の監視役です。北陸師団における前田利家や、佐々成政のような立場です。
ですから光秀が軍を起こすならいつでも軍を送れるように準備していなければなりません。ですから筒井順慶が4日に本拠地から行軍し5日に近江に入ったのも、行動としては不思議ではありません。
一方細川藤孝ですが、本能寺の報を聞いた藤孝は6月3日に出家し、家督を忠興にゆずり、忠興の妻である光秀の娘、玉を幽閉します。明らかに光秀に敵対し再三の光秀からの援軍要請も断っています。嫁の父であり寄り親(与力が仕える師団長)の光秀の誘いを拒否しているのですから、光秀に勝ち目がない(誰かによって討たれる)と確信していたように見えます。
筒井順慶も5日に近江に入った後に撤退し本拠地で籠城の構えを見せます。その後10日に秀吉への恭順を決意し、11日に明智軍からの援軍要請が来ますがきっぱり断ってます。
その後の細川家と筒井家について述べますと、山崎の合戦後、細川家は秀吉から感謝の書状を与えられ、清須会議にて細川けは丹後一国を与えられることになり、同年9月光秀派とされた一色義定(満信)を下し丹後一国の大名となります。
筒井順慶は13日の山崎の合戦後14日に秀吉に目通りをしますが、遅参をとがめられ、嫡子を人質として出すことによって領国安堵は許されますが、その後の1583年の賤ケ岳の戦い(では3月に一度滝川軍の抑えとして出陣し、4月3日に帰城、4月25日に近江へ出陣、5月6日木帰城、5月7日滝川軍の抑えのため再度出陣。とつづき、「多聞院日記(奈良興福寺の多聞院において1478-1618までの記録を三代の僧によって書かれたもの)」には順慶が五月10日に滝川軍により伊賀にて攻撃を受け負傷」とあり、翌1584年の小牧長久手の戦いに参陣要請があり、7月の参陣中に胃病にて陣没とあります。過度の過労とストレス、前年に負傷したことによる死でしょうか、享年36歳明らかに使いつぶされた後半生だったように見えます。
筒井順慶の行動は光秀の消極的に指示に従い、細川藤孝は光秀の指示を真っ向から拒否しています。




