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歴史における通説と私見  作者: 鹿島三塁手
第3章 本能寺の変と謎の記録
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本能寺の変の報を聞いた織田家家臣団の行動

本能寺の変の直後に師団長クラスだった柴田、丹羽、滝川の行動を調べてみました。

 今回は信長死去の報を聞いたときの家臣団の様子と、その後の行動について振り返ってみます。


 森長可は8日に報を聞き16日に海津城から撤退、24日に美濃に戻ります。それを基準に考えてみます。


 その他は滝川一益が5日後の7日に報を聞きますが、10日に本能寺の変を配下や諸将に告げ、敵対するも味方になるも自由であると告げ、11日に大掛かりな能演劇をしたのち16日に北条の侵攻に18日の初戦は勝利するが、19日には敗北、21日になってやっと小諸城に入ります。その後も信濃の諸将との交渉をしつつ戻るという行為をしながらだったため、伊勢についたので7月1日で、清須会議(6月27日)には蟄居していたのではなく、間に合わなかったというのが真実のようです。


 北条家は実は1580年に織田家に従属の打診を氏政が行い、武田家滅亡後には、織田と北条の間での婚姻の話も進んでいましたが、本能寺の変の情報がもたらされると、11日付で一益に確認の手紙を出しつつ、12日には兵の招集を始めています。


 筆頭家老だった柴田勝家率いる北陸方面団はは何をしていたといえば、上杉氏の魚津城攻略の舞った中でした、そして魚津城は翌6月3日に落城します。その後6日に本能寺の一報がもたらされると、10日には北の庄に撤退し、丹羽長秀と連絡を取りつつ光秀を討つ計画を立てますが、上杉側も変を察知し、越中、能登でかく乱作戦を行ったため、身動きが取れなくなってしまいます。そして近江に出陣した時は18日になっており、明智軍は13日に山崎戦いで敗北してしまっていました。

 

 では四国方面軍に織田信孝の副将として従軍していた丹羽長秀はどうでしょう。四国方面軍の師団長となった織田信孝は領地である伊勢で、総動員をかけ、14000の軍を率いて、安土城に5月27日に拝謁し、丹羽長秀、蜂谷頼隆(長秀の義弟)、津田信澄(信長の弟信行の子)の3人をつけ送り出します。


 そして二日後には摂津に到着し、四国への行軍のため九鬼水軍9艘と他100艘を呼び、渡海準備のさなかに本能寺の一報がもたらされ、そして信孝が無理に動員した兵士は数を減らしていく。困った長秀と、信孝は5日に光秀が舅であった津田信澄が共謀しているという風評に踊らされ、信澄を討ちとります。その後丹羽長秀は柴田勝家と連絡を取りつつ、11日に尼崎に布陣し明智と山崎の戦いを行う、羽柴秀吉の陣に直前に合流します。そのは太閤記では4000と言われますが、実数は14000から引いたとして、6000程度とみるのがだとうでしょう。


 こう見ると柴田勝家の行動は無難に、丹羽長秀は本能寺の事が即日伝わったたったための情報の錯綜(さくそう)と信孝による無茶な総動員による士気の低い部隊による壊滅が見えます。それでも2人は出来る範囲で光秀打倒の行動を起こそうとしていました。


 滝川一益は「引くも滝川攻めるも滝川」とよばれ、本能寺直前は上野と信濃の一部を任され、関東における師団長として働いていましたが、信長の死を7日に聞いた彼は10日に与力諸将に話すまで、3日間全く動きが伝わっておらず、その後の行動もそれまでの切れがありません。信長の存在が彼のすべてだったといっても過言ではないでしょう。その後の彼は秀吉と勝家の対立時もほどんど何もできず1586年に亡くなります。

 滝川一益の生涯は本能寺の変と共に終わった感がありますね。

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