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歴史における通説と私見  作者: 鹿島三塁手
 暗殺 龍馬編、蘇我入鹿編
23/69

乙巳《いっし》の変

大化の改新を調べるにあたって、不自然なことが多すぎるのです。

 乙巳の変とは|蘇我入鹿《そがのいるか》暗殺の事を指します。今回これを取り上げたのは、意味があります。実行犯は中大兄皇子(なかのおうえのみこ)中臣鎌子(なかとみのかまこ)(後の藤原鎌足)が実行犯のクーデターです。

 これはその後の{大化の改新」と呼ばれる新政権の行動と、彼らの行動に不審な点があるからです。


 |厩戸皇子《うまやどのおうじ》(私の時は聖徳太子と習いました)の存在が揺らいでいるからです。厩戸皇子自体は推古天皇の時代に存在したことはじじつですが、そちらではなく「聖徳太子」のの方の存在が怪しまれています。聖徳太子は蘇我系の皇族で、十七条の憲法や法隆寺の建立、遣隋使の派遣を行った政治家と言われていますが、本当にそうだったのでしょうか。


 聖徳太子というと、一定以上の年齢の人に聞けば「一万円札の肖像の人」をイメージしますが、あの肖像画は大使の死後遥か後に書かれてもので、服装も飛鳥時代のものとは違います。何より彼の没年がはっきりしません。政治の中心にいながら亡くなったのエピソードが異様なのです。

 厩戸皇子が倒れた後に看病していた妻も倒れ、妻の方が先に亡くなりその翌日に彼がなくなります。その他にも神馬に乗って富士山を周回してきただの、馬小屋の前で産気づいて生まれたのが彼であるだの、キリスト教や、中国の聖人伝説のような話が、彼にのみ残っています。

 そして彼の一族で息子である「山背大兄王やあしろのおうえのおう」も不思議です。643年12月30日、蘇我入鹿に攻められ、逃げもせず「私が呼べば周辺の人が集まり勝つだろうが、そうするとなくなる人も出るだろうからこのまま討たれる(意訳)」といい一族の滅亡を受け入れます。


 そもそも厩戸皇子は蘇我馬子が大伯父にあたる人物で、その子|蝦夷《えみし》と共に政治を行ったはずです。ですから、蝦夷の息子入鹿と厩戸皇子の子である山背大兄王は、子供のころから面識はあるでしょうし、些細なことで対立はしないでしょう。


 次に中大兄皇子についてです。彼は乙巳の変のあと20年たってやっと天智天皇となります。彼の経歴を見ると、野蛮で短慮、無理に滅んだ百済に肩入れし、白村江の戦いで惨敗します。

 そして中臣鎌子は百済に肩入れしている時期に消え、敗戦後にまた記録に現れます。


 クーデターを起こし前政権を倒したのに中大兄皇子はすぐに天皇位にはつけず、彼の前の天皇である斉明天皇の死後それも7年後に即位します。


 ここである仮定が生まれます。聖徳太子が存在しない可能性です。その場合はその位置には蘇我の馬子、蝦夷が置き換わり、聖徳太子の功績は蘇我家のものとなります。

 そして百済系渡来人と大きく関係する中臣鎌子が、鉄砲玉の役を中大兄皇子に行わせる。という仮説が成り立ちます。なぜなら天智天皇死後の壬申の乱以降、天武天皇がなくなるまで中臣鎌子(藤原鎌足)は権力の中枢から干されます。


 これだと日本書紀の記述に反するのですが、その日本書紀を編纂したのが鎌足の息子、藤原不比等です。「歴史は生き残った者が作る」だとしたら、こんな可能性もぬぐい切れませんね。まあ今回は短めに書きましたが、乙巳の変、中大兄皇子、藤原氏については別著「偽史ぎし日本の古代史」(未完)の大和時代奈良時代を読んで下されば、詳しく載ってます。


日本書紀を編纂したのは、自らの正当性を天武天皇が主張したかったでしょうが、彼の死後内容は置き換わっていたとしたら。

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