坂本龍馬編
龍馬暗殺は彼に多様な面があるので、実に判断しづらい。
私たち現代人は、戦争を知らずに育ってきているので、暗殺や戦闘に対して理解できないことが多い。祖父母やその他の戦争経験者に聞いても、あまり血なまぐさい話はほとんどなく、面白エピソードなどがほとんどだった。今回は暗殺について、いくつか考えてみます。
今回はよくテーマにされる「坂本龍馬」(1836-1867)について考えてみる。動機は様々あり、絞り切れないので、後で考えるとして、逆に龍馬が生きているメリットについて考えてみます。
まず最初は人脈です。討幕派の薩長要人と幕府の大物に知人がおり、越前松平春嶽公にも顔が効きます。交渉をするなら彼は重要なポジションにおり、実に便利です。土佐とは対立関係にありましたが、その当時はビジネスパートナー、土佐と他藩の顔つなぎ役としては必要性はあったように見えます。
龍馬暗殺直前に幕閣の永井尚志は坂本は切るなと新撰組局長近藤勇に行っています。討幕派との交渉の窓口としての必要性があったでしょう。
長州は4月に亡くなった、高杉晋作や桂小五郎と関係が深く、そもそもその時に長州は禁門の変後の「京都への進入禁止」がとけていません。
そもそも実行犯が見回り組というのも不自然なのです。見回り組は幕府旗本の子弟が中心に成り立っています。新撰組を注意して見回り組に伝えないという片手落ちはおかしく、上意に反する行動は、見回り組もできないでしょう。明治政府に自供した今井信郎も3年の禁固刑の後明治5年に特赦になっています。その裏では西郷隆盛が口利きをしたとありますが、西郷説はどうでしょう?
西郷は龍馬の死を聞いたときに慌てふためき呆然としていたとあります。汚れ仕事を全くしないわけではありませんが、知っていたのなら、もっと対応があったような気もします。薩摩説をとるなら大久保利通の方が可能性は高いでしょう。
では土佐説ははどうでしょう。暗殺時龍馬は中岡慎太郎と一緒におり彼は重体ではありましたが、その後2日ほど生き様々な証言をしています。そこで土佐の人間が実行犯であったなら、すぐにばれるでしょう。黒幕の可能性は0ではないですが、実行犯ではないでしょう。それに幕府方の人間なら暗殺を隠す理由はありません。
逆に龍馬暗殺後に何があったのかを見てみます。龍馬最後の1週間で龍馬にあっていた伊藤甲子太郎が3日後の18日に暗殺されています。新撰組による内部粛清と言われています。その後12月9日に王政復古に関する会議が、御所で行われ、徳川家の官位の返却と、領地を天皇家に戻されることが決まります。そして海援隊は紆余曲折を経て、翌年4月に解体となります。
どうも土佐、幕府に不利に進んでいるように思われます。事実戊辰戦争では、慶喜は蟄居の形をとり、幕府も主戦派を退け、勝海舟をたてて最終的には西郷が折れ、江戸は無血開城となります。王政復古の会議では、幕府を擁護する山内容堂を休憩中に伝わるように脅したとされる行為とはつながりません。
最も勝も決裂時には江戸の焦土作戦を計画していたようですが。
勝海舟が西郷との会談時に、薩長土の連合に亀裂の入るような事実を伝えたとしたら、龍馬が薩摩土佐藩邸に入ることを嫌っていた理由は何か。近江屋にきた犯人が「十津川郷士(龍馬との知人、吉村、那須などが天誅組の変でなくなっておりでした。、それに賛同したのが奈良の十津川に住む郷士でした。それを理解できるもの)、鞘を残していくのは姉小路公知殺害容疑の田中新兵衛の自害も鞘を証拠とされたこと、となるとどうも討幕派っぽい気がする。龍馬が死んで怒りそうなのは、交渉の窓口にしたかった土佐、知り合いの多い長州(当時長州は京に入れない)とすると、薩摩で情の深い西郷を除くと、川路(後の日本の警察制度を作って言った人物)もしくは海江田(桜田門外の変で唯一薩摩から加わった有村の兄弟)あたりの暴発ではなかろうかと思う。
かなりの小物になったが、大久保あたりの意を汲んだつもりでの暴走あたりがありそうかなというのが結論です。




