吉宗の後継者と大御所時代
吉宗の長男家重は言葉が不自由なだけで、能力は普通の人でした。野心丸出しの次弟、遊び人の3弟よりはいいかなあとはおもうほどです。
最後の政敵となった、尾張宗春を隠居謹慎にし、政治的に葬った後、吉宗は自分の跡継ぎの事を考えます。
最年長の家重(1712-1761)は言葉を発することが苦手ではあってもバカではなく、おそらく失語症の気が強い人物ですが、能楽などの芸術を好む人物でした。
その弟の宗武は幼少より学問を好み、武術にも力を入れる英明の素質のある人物ですが、我が強く兄である家重を軽んずる傾向もある、癖の強い人物でした。
その弟の宗尹は多趣味多芸で、特に吉宗も好んだ鷹狩りを好み、行動的な人物でした。
この3人を比べた場合宗武を推す人物も多くみられましたが、吉宗は将軍職を家重に譲ります。これには吉宗が心がけていた「権現様のいうとおり」という考えが影響していたとみられます。
3代将軍後継を家光と実弟忠長が争った時、家康は社交的で、秀忠夫妻の推す忠長ではなく、家光を嫡男とることを公言します。当時は戦国の気風も冷めやらぬ時代で、お家騒動を起こし、徳川家が分裂、没落することを嫌ったと見えます。織田信長の後継者問題や秀吉亡き後の関ヶ原のようなことは避けたいと思ったのでしょう。そして儒学における年齢の上のものを貴ぶ「孝」を重視したものと思われます。
そして宗武には田安家を、宗尹には一橋家をたて、江戸場内に住まわせます。ちなみに御三卿のもう一家である清水家は、家重の時代にその次子である「|重好《しげよし》」をたて、徳川宗家に何かあった場合はその3家より後継を出すことによって、尾張家や、水戸家に徳川宗家を継ぐ機会を大幅に減らしました。唯一水戸家より一橋家に養子に入った慶喜が最後の将軍というのも、不思議なものを感じます。
1745年吉宗は家重に将軍職を譲り、自らは大御所として家重を後見し家重の子、後の家治に期待し教育に取り掛かろうとします。
家重は将軍に就任すると、反抗的な弟の宗武に3年間の謹慎を命じその後は、生涯会わなかったそうです。よほど比べられ、馬鹿にされていたことを根に持っていたのでしょう。しかしその治世は悪いではなく、権力の強くなりすぎた 松平乗邑の罷免、その後も大岡忠光(大岡越前とはかなり遠い親類)が家重の言葉を通訳する形で幕閣と連携して幕府運営を行います。
しかし吉宗は、1746年手が震える病気(おそらく脳卒中)を起こします。そのため、言語が不明瞭になり、右半身まひ(この場合左脳に影響が出ていると言葉の出にくくなることからもわかります)を起こしますが、彼は不屈の執念でリハビリをこなし、自力で歩けるほどにまで回復します。
しかし1751年二度目の脳卒中を起こしなくなります。満66歳(数え68歳)でした。
まあ質素倹約の一汁三菜が濃い味になって、卒中になったのかもしれませんね。




