大奥対策と尾張宗春
質素倹約は個人でやる分には良いのですが。
よく「吉宗はブス専」だったということを歴史好きの人から聞いたことがありますが、それは彼の行った大奥改革を指して言っている気がします。
吉宗が将軍時代に大奥には、400人ほどの人員がおり、年間の経費が幕府の年間収入の4分の1ノやう45億食らいかかっていたそうです。この金額を圧縮するために、吉宗はある計画を建てました。
大奥内の25歳以下の気立ての良いもの50人を集め、解雇します。これには側室でも洗ばれると思っていた、幕閣も当人たちも驚きます。
理由を尋ねると「器量の良い若い女性なら、市井にもどっても、良縁に恵まれるだろうし、化粧や着物などの代金も器量の良いと思ったものほど、かさばる」と誠にロジカルな答えでした。まあ実際の年の大奥の経費は減っていますし、間違いではないのだろうけど、自分の就任時に天英院と月光院に行った行動と比べたらどうなんだとも思います。
その上1721年には4男となる一橋宗尹(1721-1765)も生まれていますし、面食いでないことだけは確かです。噂もあながち嘘で放ったのかもしれませんね。
そうして自らも質素倹約にいそしむ吉宗に反対する行動をとるものが現れます、尾張7代当主徳川宗春(1696-1764)です。
徳川宗春は若くして官位もらい、吉宗から鷹狩りの獲物が贈られるほど、一門として優遇されてました。そして兄継友の死により1730年尾張藩主となり、吉宗から偏諱を賜り宗春(それまでは兄の通から通春と名乗っていました)となります。尾張家を継ぐまで仲の良かったふたりも、宗春の尾張入り以降関係が変化します。
宗春が子供の頃、彼は兄の吉通にかわいがられ、元禄文化華やかしころの名古屋で育った。その後父綱誠が1699年に、兄吉道が1713年7月に、その嫡子五郎太が10月に亡くなり、兄の継友が後を継ぎ質素倹約につとめ、名古屋が活力を失っていく過程を見つつ1729年梁川藩に乞われ同藩主となる。
1730年兄である継友が死去し、7代尾張名古屋藩主として舞い戻った宗春の見た名古屋は城にはたくわえが十分あるが、寂れたまちにみえたのかもしれない。そこで、宗春は吉宗とは違う形の改革を始める。
死刑を廃止し、同時に城下を見回る家臣を増やし、犯罪を未然に防ぐことをに重きを置くことになる。そして吉宗の行っている、質素倹約路線から、規制緩和にかじを切る。そして良いことと悪いことを判別し良いと思ったのなら、幕府の方針に反しても、市井のひとの喜ぶような政治を目指し。お金が循環する政策を相次いで実行した。そのため名古屋には活気が戻り市井からの支持もたかいものになった。
その当時の幕府は水戸家より提出された「大日本史」の事で、朝廷と対立関係になり、5摂家とつながりの強い尾張藩はその対立に巻き込まれれてしまいます。この時、享保の改革は曲井角に来ており、宗春の人気を危険と感じた幕閣と尾張付け家老成瀬、竹腰などにより1739年には謹慎命令が、翌1740年には謹慎隠居命令度出され、名古屋城三の丸に謹慎隠居となります。
宗春の隠居後は彼の従弟の子にあたる高須藩主松平義淳を8代尾張藩主とし、吉宗より偏諱を賜り徳川宗勝を藩主につけます。その後、宗春は謹慎が解けず、が既出許可の出ないまま時が過ぎてゆき、心配した吉宗が人を遣わし様子を見させてたありますが、そんなことをするなら謹慎を解く方が早いように見えますので、アリバイ作りもしくは、本当の意味での見張りという可能性もあります。
その後1751年に吉宗がなくなると、場外に居を構え墓参りや陶芸づくりなどをしながら2769年に亡くなります。
徳川宗春が貨幣経済に明るかったとは思えません、単なる嫌がらせでしょうね。




