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歴史における通説と私見  作者: 鹿島三塁手
第二章 大暴れ将軍吉宗、その実像と虚像
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享保の改革

私のらった頃の歴史では享保の改革は「一部成功」と言われていました。

 吉宗は将軍就任後、3代家光の日光島東照宮の大造営(1634-1636)家綱、綱吉の時代の物価の上昇による赤字決算の通例化がおき、幕府の財政は悪化の一途をたどっていました。

 その時の吉宗には艱難辛苦を超え征夷大将軍に上り詰めた初代家康の治世を目標とし、自らを家康に重ね幕府経営を行います。

 吉宗の言葉に「すべて権現様(家康)の定めたとおりに」という言葉があり、あの時代が一番正しかったと、吉宗は思っていたようです。


 享保の改革は「足高の制(たしだかのせい)」(1723)、「上米の制(あげまいのせい)」(1722)、「定免法(じょうめんほう)(1722)、「五公五民(ごこうごみん)」(1728)などの税制、給与改革。

 「町火消の創設」(1720)、小石川養生所(1722)、目安箱の設置(1721)などの民事にかかわるものがあります。

 「足高の制」とはある人間が役職に就いた場合、昇給は子孫にまで続く恒久的なものだったものを、その役職に就ている間だけ手給される、役職手当に変更になります。上米の制は参勤交代の期間を短くする代わりに、幕府に一万石当たり100石、10万石なら100石、幕府に米を献上する制度です。定免法とは、その年の出来高によって年貢の量を決めるのではなく、過去、10年、20年を振り返りそこから算定した年貢を作柄に関係なく徴収する定額制のようなもです。それでも足りなかったようで新田開発や1728年には、以前は四公六民だった年貢の比率をを五公五民にまで引き上げています。


 次に民政ですが、木造住宅の密集している江戸は火事に弱く、それに対応して大名は自らを守る「大名火消」がありましたが、一般の市民には適応されなかったので、、町人が延焼した家屋を破壊して周りに燃え移ることを減らす目的で、「町火消」が設置されます。ちばみに時代劇に出てくる火消の辰五郎は、じつざいのじんぶつではありませんはが、15代将軍徳川慶喜と縁の深かった幕末の火消、「新門辰五郎(しんもんたつごろう)}がモデルではないかとされています。

 小石川養生所は日本医古来からある「施薬院(やくいん)」薬草の栽培と病人の治療を行っていたものの延長にあるもののようです。 

 目安箱は紀州時代に行っていた訴訟箱の延長でしょう。


 それと一般市民に直接関係はありませんが、「御庭番」として紀州から連れてきたものを登用し、市中の監視をおこない、側用人は廃止しますが「御側御用取次(おそばごようとりつぎ)}という制度を行い、紀州からの側近を重用しています。


 何か書いていて、特に税制はよい制度ではないように見えます。本当に吉宗は名君だったのでしょうか。


徳川家としてみれば、成功の部類に入るかもしれませんが、江戸幕府、ひいては日本全体としてみると、厳しいものがあります。

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