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歴史における通説と私見  作者: 鹿島三塁手
第二章 大暴れ将軍吉宗、その実像と虚像
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将軍就任直前から就任後

吉宗の対抗馬たりえる人物が何人もいたのですが、悉く亡くなっていきます。

 吉宗は1716年に7代将軍家継の死去により、8代将軍になりますが、その前にも尾張徳川家との後継争いがあります。当時の尾張家は吉道の弟である6代徳川継友(つぐとも)(1692-1731)が当主です。


 継友は、兄吉道の死後2歳(数え3歳)で後を継いだ五郎太がわずか2か月でなくなり、当主の座が転がりこんできます。すると次の日に長かった部屋住みの反動か酒宴を開き付け家老の成瀬正幸(なるせまさゆき)竹腰正武(たけこしまさたけ)に叱責を受けますが、その後は領民から「ケチ」といわれるほどの倹約をし死去する2年前の1729年には13000両以上の金子と27800石の兵糧備蓄を残しています。しっかり貯めて、使うときはぱっと使う名古屋人の気質だなあと思います。

 

 話を将軍の継嗣問題に戻しますと、尾張継友を幕閣の間部詮房や新井白石が推し、6代将軍家宣の正室天英院、7代将軍の実母月光院が推したとされています。

 その当時将軍になった親藩の領地は幕府に返納になり、家臣は幕臣になるのが通例でした。そうであるならば尾張藩付け家老である成瀬、竹腰家も幕臣に復帰する機会であったのに、両家は積極的に継友を推さず、吉宗に8代将軍の座を明け渡しています。吉道、五郎太と二代続けての急死が何かの暗示をしているようです。


 将軍となった吉宗は紀州を幕府に返還するのではなく、従兄である伊予西条藩主松平頼政(後の徳川宗直)に跡を継がせ、紀州から40名ほどの家臣を連れてきますが、それも出立当日の当番だったと伝わっていますが、他の説では200人以上の家臣を連れてきたともあり、その中には田沼意行(おきゆき)(田沼意次の父で就任時は小姓)もおり、この話も何か怪しい気がします。

 ただ綱吉から家継にいたるまでの側用人、側近による政治に批判的な譜代大名などには歓迎されたということです。


 そして将軍に就任した吉宗は報復人事を行います。自らの将軍就任に反対した間部詮房や新井白石を罷免します。もう一方では就任尽力した天英院や月光院には逆に、天英院には毎年11000両と1000俵を、月光院には毎年8600両と1100俵の米、吹上に一万坪のと御殿を建て送っています。

 これだけ見ると天英院の方が不遇だったように見えますが、そもそも吉宗は紀州時代に正室を失って以来正室を持っていなかったため、大奥の主の座は天英院が継承し、月光院には新しい御殿を与え、両者が直接的に対立することを封じ込んでいます。


 次話でも話ますが、質素倹約をむねとします。その割に天英院と月光院に対し不自然なほどの優遇をしています。


天英院には名誉を、月光院には実利を就任時のあたえています。逆に反対派の人物は罷免し、尾張徳川家には口の出せないような状況に追い込んだようにも見えます。

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