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歴史における通説と私見  作者: 鹿島三塁手
第二章 大暴れ将軍吉宗、その実像と虚像
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紀州吉宗大暴れ

紀州家を継いだ後の吉宗の行動です。財政再建については、まあ仕方ないと思うのですが。

 22歳で紀州家の家督をついだ吉宗は、その内情に驚きます。1年に3人もの父と兄くの葬儀を出したことで仕方なかったこともありますが、幕府からの借金が10万両になってしまっていました。

 これでは藩が立ち行かないと考えた吉宗は次々と改革を行っていきます。「藩政機構の簡素化(人減らし)」「質素倹約(支出のカット)」を自ら率先して行い、そうやって幕府への借金の返済と共に、家中には差出金の賦課(家臣からお金を差し出すと言う体で賃金カットを行う)」「藩札(手形決済による手数料の増加の阻止)の停止」という出血覚悟の改革と同時に、1707年に起こった宝永地震復旧(地震復旧特需)と後の目安箱の原点にあたる訴訟箱の設置と、紀州藩の改革を推し進めていきます。


 これだけでも、藩士たちには、主君が無理難題を押し付ける暴れん坊にみえますが、それだけでなく私生活でも彼は大暴れします。

 紀州時代に女中の子として長子長福丸、後の家重(いえしげ)(1712-1761)、次子小次郎、後の田安宗武(たやすむねたけ)(1716-1771)と公式には2男をもうけます。なぜ公式にというかと言えば、当時の吉宗の行動に原因があります。


 吉宗は1706年の藩主就任の翌年に京都から理子(まさこ)女王という親王家の娘を正妻に迎えますが、1710年に出産に耐えられず、母子ともになくなります。そして亡くなるまで正室の後添えは迎えませんでした。ここまで聞くとよい話なんですが、じゃあ家重と宗武はなんなんだというはなしになります。吉宗は正妻を迎えなかっただけで、城下の茶店の娘にてをだしたり、偶然に通りすがった農家の娘をお持ち帰りして側室にするという、中々「暴れん坊」なひとでした。

 高知や紀州の一部には明治ころまで「夜這い婚」というものがあったようで、おおらかな土地柄と言えますが、吉宗の行動は突飛すぎる上に、手を出す女性もバラバラと、なかなか守備範囲の広いひとのようでした。


 1709年紀州家とも縁の深く、吉宗にとっては恩人である将軍綱吉がなくなります。そしてそのあとを継いだ家宣も1712年に死去し、その子7代将軍家継も1716年にわずか8歳なくなり、秀忠の系譜の徳川宗家は男子がいなくなってしまいます。

 この時に次ぐ義の将軍候補に挙がったのが尾張4代目藩主「徳川吉道(よしみち)と紀州藩主の吉宗でした。御三家も格からから言えば、尾張家の方が格上で藩祖が家康の4男松平忠吉であり、その死後家康の9男義直が入り、その子孫が藩主の家柄で、藩祖頼宣が10男の紀州家、藩祖頼房我11男であるため、宗家に何かがあったときは尾張家が継ぐという風に幕府内ではとらえられていたようです。

 

 しかしライバルと目され、6代将軍家宣からの期待の大きかった尾張家当主吉道も、1713年に不審な死を迎えます。そうして8代将軍には有力な対抗馬のなくなった吉宗が就任します。



 


 今風に考えると、セクハラ、パワハラ、人権無視でしょうね。結構無茶な行動を強いています。元ヤンみたいです。

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