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歴史における通説と私見  作者: 鹿島三塁手
第二章 大暴れ将軍吉宗、その実像と虚像
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三万石の小大名になったはずが

部屋住みで捨扶持をもらい日陰を生きていくはずだった吉宗は14歳にして大名となりました。普通ならこれでもラッキーなのですが。

 吉宗は1697年 越前葛野藩の藩主に任ぜられます。しかし、それまで部屋住みの末子だったため、藩の統治などわかるはずもなく、葛野には家臣を派遣し、自らは紀州にて藩政を行うこととなります。


 この当時の藩主としての吉宗の評価はほとんど知られていません、なぜなら葛野藩自体が長く存続した藩でなく一時期あったとされる短期間の藩だったからです。


 前話で父と2人の兄のところに没年に月日まで書いておいたのには意味があります。1705年7月8日、吉宗の長兄であった綱教がなくなります。39歳でした。この時代は衛生状態、医療環境もよくなく、平均寿命も50ほどの時代でしたから、少し早めかなとは思いますがあり得ない話ではありません。

 しかしショックを受けた人が2人いたのは確かです。一人は将軍綱吉です。娘婿である綱教は、綱吉の後継候補であったことはまちがいありません。なぜなら嫡男のいない綱吉が1704年になってやっと兄の子である甥の家宣を養子としたのは1704年12月31日、綱吉59歳、家宣43歳と、綱吉が老齢と言われる頃になってからでした。

 

 もう一人は父である光貞です。将軍綱吉も娘をもらい綱吉の娘婿となった綱教に次期将軍はダメでも。家宣の次は狙える、最悪でも紀州の名君として幕府に影響力を持つことができ、その後はゆくゆくは紀州家から将軍をと考えていたとしても不思議ではありません。裏を返せは、綱教の養子を拒んだ幕閣も同様に紀州家の油断ならさは父頼宣のころからわかっていたでしょうから、できるだけ綱教は避けたかったでしょう。

 そのように手塩にかけて育てた長男に先立たれた光貞の気持ちはどうったでしょう。気落ちしても不思議ではありません。そして、光貞は1705年9月25日に綱教の後を追うようになくなります。光貞は78歳の高齢であり、この結末は予見できたでしょう。


 そうなると紀州家の家督は光貞の次男頼職になりますが、兄綱教が急病で倒れた後に、徳川に復姓します。光貞亡き後の世継ぎとしての行動でしょう。そして父が倒れたという一報を聞き、江戸から早馬で紀州に入ります。父の死には間に合いましたが、無理をしたせいでしょうか、1705年10月25日、光貞の死から1月後に亡くなります。


 光貞の長兄の綱教のの死から、頼職の死まで4か月もたっていません。しかも藩主と、世継ぎ、その弟と1年に3回も大きな葬儀を出して、財政が火の車の状況の紀州家を継げ者は、もはや吉宗しか載っていませんでした。5代藩主として吉宗が紀州家を継ぐときに、綱吉より偏諱をもらい「吉宗」と名乗っています。22歳の双肩に紀州の将来がかかります。


 人生は筋書きのないドラマといいますが、まるで誰かが筋書きを描いているようですね。

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