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歴史における通説と私見  作者: 鹿島三塁手
第二章 大暴れ将軍吉宗、その実像と虚像
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吉宗誕生

世の中は不思議なもので「禍福は糾える縄の如し」どんなところに幸運が転がっているのかはわからないものです。

 吉宗(幼名新之助)は1684年、紀州藩2代目当主徳川光貞(1627-17059月25日)の4男(次男は早逝)として生まれます。

 南海の竜と呼ばれ「由比小雪の乱」の黒幕ではなったかとされる徳川頼宣の孫にあたります。試し切りをこのみ、他国の(朝鮮)の内乱にも首を突っ込みたがる、よく言えば覇気がある、悪く言えば山っ気の強い人物でした。

 その長男が光貞で、父を反面教師にしたのか、治世時は善政を常とし、文武の鍛錬を込んだ人物とされています。吉宗はそんな光貞の子として生まれます。しかし4男であり、母の身分もあまり高くなく(宗家家綱、綱吉は市井の生まれ、一説には西陣屋、畳屋の娘)次兄治郎吉の家によって育てられます。

 兄である治郎吉が早逝すると、吉宗は江戸の紀州藩邸に住むことになります。部屋住みというやつです。このあたりは前章で話した井伊直弼の時に話したので、詳しくは説明しませんが、その吉宗に転機が訪れます。5代将軍綱吉の紀州家来訪です(1696年)。

 

 父である光貞は長子の|綱教《つなのり》(1665―1705年7月8日)とその弟頼職(よりもと)(1680-1705年10月25日)を目通りさせます。

 その時綱吉は吉宗の存在を知っていたらしく、吉宗も呼ぶようにと伝えます。光貞としては部屋住みであり、公式の場に出すつもりでなかった息子を呼ばれたので複雑な心境だったでしょうが、吉宗の目通りもかないます。その翌年(1697年)頼職は越前高森藩主に、吉宗は同じく越前葛野(くずの)藩主として、別家を立てることになります。綱吉は部屋住みであった2人を家綱時代の自分の立場に重ねたのでしょうか。ともかく頼職は17歳、吉宗(松平頼方を藩主就任時に名乗る)は14歳でともに3万石の藩主となります。


 父である光貞は、綱吉に世継ぎができないことから、長男綱教に将軍を継がせるべく、綱吉の娘との婚姻を結んでいます。この辺りは父頼宣の血を受け継いだ、単なる良い藩主ではないことがわかります。


 では葛野藩主になった吉宗はどうなったでしょう。



 


 徳川将軍家には相続者がいないと、御家取り潰しという制度があり、それは譜代や親藩に適応されます。ですから部屋住みのまま一生を送る人もおおかったのです。

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