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歴史における通説と私見  作者: 鹿島三塁手
第二章 大暴れ将軍吉宗、その実像と虚像
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吉宗に至るまでの徳川将軍

 徳川宗家は、初代家康がプレーンたちと考え、長期政権になるように制度を制定しました。その後も暗君と呼ばれる将軍もなく(綱吉は冤罪です)7代まできますが、ここで断絶してしまいます。

 今回は家康から7代将軍家継までの流れをのへていこうとおもいます。何故7代までかというと、徳川宗家が7代家継(1709-1717)を最後に、八代吉宗から紀州頼宣の血統に移ることになるからです。


 まずは二代将軍徳川秀忠についてです。彼は家康の側室の子として三男として生まれますが、彼の誕生時には父の正室はもうおらず、同様に庶子であった兄の秀康(1574-1607)がいたが彼は「小牧長久手の戦い(1584)に秀吉のいる大坂に人質として行くことになる。家康としても秀康より秀忠の母の方が、家格も高く信康(1559-1579)の後の後継者は秀忠に決まっていた可能性もあり、家中の分裂を未然に防ぐための行為とも見れるが、2代にわたって祖父、父と暗殺され、母とは実家の水野家が織田方に付き離縁となったため、親の愛情を十分に得ないまま、大人になったことによるバランスの悪さ、人間不信が根本にあったように思われます。


 その家康に危険視されず、2代将軍として幕府の体制を固めていく政策を出していった秀忠も並みの人物ではなかったでしょう。しかし彼は「恐妻家」というレッテルを張られ評価もあまり高くありません。それは実子の、家光と忠長の対立にあるでしょう。

 この話は書くと長くなるので、また別の機会に書かせてもらうことにしますが、このことのよって父秀忠と家光(1604-1651)中は最悪となり、彼が三代将軍就任後にも、尊敬するのは家康のみで、自分は家康の2世であるとし、「二世権現(家康の死後の通称)、二世将軍」と称し秀忠がいなかったような行動をとります。


  家光は父母の愛情が薄かったことももあり、乳母である春日局にべったり甘えるようになり、後継ぎ家綱(1640-1680)がやっと30代後半で生まれます。

 家光の治世は島原の乱(1637)やオランダ商館の出島への移転(1641)など多くの変革があり、まだ戦国の空気の残っている時代でした。


 4代家綱(1641-1480)と5代綱吉(1646-1709)の時代は武からち知への転換点でした。家光の死直後に由比小雪によるクーデター未遂があり、今まで次々と諸藩をつぶしていた政治によって大量の不満を持つ浪人が発生したことを重く見て、「末期養子(まつごようし)(主君の死の直前に養子を立てること、および死後に主君が生きている風にふるまい養子をとること)」を緩和したり、先代の主君のおかげで引き立てられ家臣が巡視することによる家中の混乱を避けるための「殉死の禁止」など穏健路線にかじを切ります。

 そして5代綱吉は「生類憐みの令しょうるいあわれみのれい」で有名ですが、これも何でも武力で解決する風潮を止め、相談や議論によって行われる文治政治を目指すものでしたが、彼を世等に評価しない人々によって歪んだ風にとらえられ、悪法とされました。しかし実際は前述の意味が高かったので、武力によって刃傷沙汰を起こした赤穂浅野家やその浪人に厳しい対応をしたのも仕方ありません。

 また「側用人(そばようにん)制度」を作ったのは、3代家光、4代家綱時代に幕閣との合議制を推し進めた時に時間がかかりすぎたことや、将軍の意見が蔑ろにされることもあったため、合議による素案を側用人が将軍に問うという形で草案の見直しや、将軍の意見を通しやすくするために作られたものです。この制度が不純な動機で作られたものなら、綱吉の死後廃止された、生類憐みの令と同じように廃止されなかったことからもわかります。

 ドラマ水戸黄門の側用人が悪く書かれるのは、個性の強い有能な将軍以外の人物の意見を、無理にでも通すための創作にすぎません。


 次に6代|家宣《いえのぶ》(1662-1712)、7代家継(いえつぐ)(1709-1716)につてです、家宣は家光の子で綱吉の兄にあたる綱重(つなしげ)の子で、綱吉にとっては甥となります。家宣就任後は、学者の新のえいきょうによる井白石を政治顧問に置き文民による政治を行います。その時代に白石によって綱吉の政治は批判されますが、側用人に間部詮房を置くことや、綱吉のはじめた学者の抜擢、登用によって、自らの今があること、など矛盾を抱えたまま政治を行っていました。しかし家宣は就任してわずか3年でなくなり、子の家継がわずか4歳にて7代将軍となりますが、積極的に政治を行えることとなどあり得るはずもなく、家宣時代の家臣団がそのまま政治を推し進めますが、家継もわずか4年の8歳にて死去します。


 このことによって、家康から続いた徳川宗家の血筋は途絶えます。ドラマの「大奥」などでは、早逝つづきの理由に女の争いが絡んでいた、と取る向きもありますが、近しい血統による繰り返しの結婚による、遺伝子の弱体化、未だ発達途上だった医学と、おしろいに含まれる鉛毒など理由はほかにも見つけられそうですが、全くドラマにあるような行為がなかったとも言い切れません。

 

 そして8代将軍をどうするかということが、問題となります。


 実は4代家綱死去時に、鎌倉幕府の様に、京から宮様将軍を迎えるという案もあったらしいですが、きゃっかされています。そうなっていたらその後の時代も大きく違ったものになっていたでしょう。

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