徳川御三家と吉宗の誕生
今回は徳川8代将軍吉宗についてです。彼は徳川家を立て直した人物といられますが、時代劇やイメージに引っ張らレスgではないでしょうか
以前、一族には通字というものがることを説明したと思う。足利一族が義、長尾氏、朝倉氏は景、武田氏、織田氏は信である。そして松平家は康であり、徳川家は家が通字となる。
徳川15代将軍で家の字の付かない将軍は4人いる、2代秀忠、5代綱吉、8代吉宗と15代慶喜である。このうち秀忠(1579-1632)は豊臣秀吉が天下人となっていた時期に元服し、秀吉が有力な一族を味方に引き込もうとしていた時期とも重なるため秀忠と庶子の兄秀康は、秀吉の偏諱をもらっているのだから、仕方がない。それでも綱吉、吉宗、慶喜の3人が残る。この3人に共通するのは「もともと将軍になる予定のなかった人物」ということである。
徳川15代将軍の中で正室の子つまり、嫡男はどれだけいるでしょう?正解は3人です。家康、家光、そして慶喜の3人です。これは家光以降、将軍の正室は京都の朝廷から迎えることとなります。武家と公家、日常の過ごし方も、行動原理も違う2にんから子供ができることは難しかったのでしょうか。
家康には11人の男子の子がおり、最初にもらった正室「築山殿(?-1579)との夫婦関係がよくなかったためか、その後側室に迎えた女性は一度結婚をし子供を産んだ経験のある未亡人が多く、これは子供のできやすい体質の女性をあえて選んだとも言われています。
その子のうち9男義直(1601-1650)を尾張に、10男頼宣(1002-1671)を紀州に、11男頼房(1603-1661)を水戸に分家を与え、御三家とします。この3つの土地は関ヶ原以降の転封以前は、尾張は福島正則、紀州は浅野長晟(浅野長政の孫)、そして水戸は佐竹義宣と、徳川家を封じる格好になっていた大名を転封し江戸を固め、逆に豊臣家や、伊達家を抑える形に配置されています。
その紀州頼宣の孫にあたるのが徳川吉宗(1685-1751)になります。




