井伊直弼の悲劇(下)
歴史が井伊直弼を表舞台に立たせ、彼はその風に翻弄されます。
そもそも幕府は朝廷から、政治権力の代行を許され、行っていたのだから、この行為自体を幕府が行うことに何の問題もなかったのですが、開国前に朝廷に伺いを立てたことがあだとなります。「幕府より上の権威を持つ朝廷をないがしろにすることはいけないことではないか?」この考えが、水戸学を中心とした学者や知識人に生まれます。直弼自体もそう思ったかもしれません。しかし徳川家に恩義のある井伊家当主、幕臣として、幕府は絶対であるため、橋本佐内や西郷隆盛などの一橋派の人物や、国学者を中心とした、幕府批判を始める人間を捕まえ(薩摩は西郷を死亡扱いと報告し、遠島にします)排除していきます。
今まで吉田松陰の名前を出してこなかったのには意味があります。彼はペリー来航時に、密航を企てて、捕まりますが、行動がこの国のためを思ってというものだったので、毛利家に引き渡され、入牢になります。その後、牢から出ることを許され松下村塾を始めますが、これもこの国の将来を背負う人材の育成ということで毛利家は見て見ぬふりをします。
しかし安政の大獄が始まると、有能な人物が次々と処断されていく状況に彼は我慢できなくなり、過激な発言が多くなり、幕府より召還を受けます。松陰はそこで何も言わなければ、遠島程度で済むかもしれない状況で、自ら「京都所司代暗殺計画」を発案したことを述べます。
幕府も単なる地方の学者の暴言程度に見ていたところに、重大な計画が露見したことで、放っておくこともできず、彼を処刑します。その当時の松陰は過激すぎる発言から、弟子から距離を置かれ始めていました。そのため彼は自分が死ぬことで弟子やその他の人々が今の危険な状況から目覚め行動を起こすことを夢見て亡くなります。
逆に幕府は一地方の学者のたわごとを信じたため、恨みを買い最後にはその弟子たちに敗れていきます。
少し話がずれたので戻します。安政の大獄は憎しみの連鎖を起こし、蟄居後に死去した徳川斉昭のいた、水戸や、同時期に急死した島津斉彬の薩摩、それに松陰のいた長州に、火種を残したまま続きます。
悪いことは重なるもので、黒船が持ち込んだ「コレラ」の流行や、不平等な貿易による物価の上昇が重なり、幕府への不満は増大していきます。
井伊直弼にすれば、海外に負けない国を作るために幕府の権力を強化し、貿易によって得た軍事力と、戦術によって日本を守るという、彼に対する反対派に近い発想を持っているのに、状況はよくならないという状況が続きます。
そして1660年江戸城に登城中の直弼の行列に対し、一発の銃声が響きます。水戸浪士に薩摩からの浪人、有村治左ヱ門を加えた18名の浪士の襲撃を受けます。直弼が兵法剣術を習っていたのに反撃もせずに打ち取られたのは、銃による傷のため死を悟ったためと言われています。
その時に直弼が反撃に出なかったのは、この国を守るという点では一致していたはずの、自らと立場が違えば歩調をそろえて、新しい国を作ることも夢ではなかった人々に討たれるという、矛盾に対してのあきらめや、自分の行動に対しての無念からくるものだったのかもしれません。
彼は井伊家を継いで本当に幸せだったのでしょうか。時代に選ばれた人の最期は悲劇的に終わるようです。




