歴史は、勝者、生き残った者によって改変され作られる
30年前と、今では歴史の通説と言われているものは変化しいる。鎌倉幕府成立も1192年から1185年へ、斎藤道三の国盗りも、六角家に残っていた文書から、親子2代によってなされたものであると、現在はされている。
今現在の説にもつじつまの合わないものがあり、その理由を推理することにより、私なりの答えを出していこうと思う。
歴史について学生時代に歴史学科の生徒にたずねたとき「歴史とは資料の精査と分類によって編纂されるもので、そこには推理や、仮定の入らないもの」という言葉が返ってきた。確かにその通りなのだが、私は同時に「歴史は生き残った者によって造られ、美化される」ということを感じた。
なぜなら失敗者の記録は消し去られ、生き残った勝者によって、自分の有利なように改ざんされる。今の日本の歴史の基本は水戸徳川家編纂の『大日本史』がものになっているものが多い。それも他者をその土地や、その家に派遣し、聞き取りと、残っていた文書から起こした者が元となっている。これが水戸黄門漫遊記の元ネタなのだが、それは置いておくとして、その方法だと、自分の祖先は美化され、途中で消えていった家は様々な罪を押し付けられる。
「洞ヶ峠を決め込む」という言葉があるが、これは天王山の戦いの時に羽柴軍と明智軍から味方になるよう要請の受けた筒井家が洞ヶ峠にいて、勝つ方についたといわれている。
しかし実際は洞ヶ峠に来たのは明智軍で、いつまで待っても来なかった筒井軍をあきらめて、天王山の戦いになったというのが現実のである。
同様に賤ケ岳の戦いにて、柴田軍の一翼であった前田家が途中で後退し始め、それがもとで総崩れになり柴田軍は敗北する。
上記の2つの事例はよく似ているが決定的に違うことがある。前田家はその後も残り、筒井家は改易によりお家が断絶している。つまり前田家には有利な証言をしてくれる子孫がいたが、筒井家にはいなかった。それを聞き取り調査で行えば、生き残った家は祖先を美化し、没落した家は、その分の割を食うことになる。
そんなこともあることを頭において、歴史を読むと不可解なことが多く出てくる。そのあたりについて学者ではないので、私見と推理をちりばめて書いてみたいと思う。
自分の主家や、先祖については美化したくなるのは当然でしょう。