解答篇
ゲストの青年は両目を丸くして、向かいで悠然と微笑む碓氷を凝視した。
「もちろん本格ミステリのような、緻密に計算され尽くした美しい論理の構築、なんてものからはほど遠い。僕の仮説が本格ものも顔負けだなんて言ってしまうと、ミステリ界の重鎮方から珈琲をぶっかけられるだろうね」
「あの、すみません。何をおっしゃっているかよく分かりませんが、とにかく教えてください。どうしてあれだけの材料から、車の写真を撮っていた男が犯罪に関わっているなんて言えるのか」
美容師の青年は、本格ミステリ小説の世界とは縁遠いらしい。それでも、おもちゃ屋に連れられ「好きなものを選んでいいよ」と言われた子どものように顔を輝かせ、碓氷に熱い視線を注いでいる。蒲生もまた、指先で忙しなくテーブルを叩きながら友人が謎解きを始める瞬間を今か今かと待ちわびていた。
「パーキングエリアに駐車している車の写真を、熱心に撮っていた男。傍から見れば『写真を撮るほど車が好き』『車の写真が必要だった』あたりの理由を思い浮かべるのが妥当だ。だが、目撃者にそう思わせることが男の意図だったとしたらどうだろう」
無言のまま眉を八の字の形にする有馬青年。
「万一誰かに目撃されたとしても、また誰かに問い詰められたとしても、『車好きで自分の愛車をカメラに収めることが趣味』とか言い訳できると考えたのさ。真の目的をカムフラージュするために」
「真の目的?」
「男にとって、被写体は必ずしも車である必要はなかった。だが、その場所には他に適した被写体を見つけられなかったのさ。自然豊かな場所でもない、何かの記念碑があるわけでもない、珍しい店が軒を構えているわけでもない。だからやむを得ずに、自分の愛車が被写体に選ばれたというわけだ」
「つまり、写真を撮るという行為自体が目的だったということですか。でも何のために」
不思議がる有馬に、碓氷は右手の指を三本立ててみせる。
「重要なポイントは三つだ。一つ、なぜスマートフォンで写真を撮ったのか。二つ、なぜ空を気にしていたのか。最後に、なぜ靴だけ立派な革靴だったのか」
「待てよ。まさか男が空を気にしていたって、空じゃなくて有馬を見ていたんじゃないのか」
美容師の男は「どういう意味です」と困惑の顔で蒲生に向き合った。
「男は、きっと有馬の視線に気づいていたのさ。それで、有馬のほうに注意を向けていた男の姿が、有馬にとっては空を見上げているように見えたんだ」
「でも、それなら僕に見られていると勘付いた時点でその場から立ち去りそうなものですが」
「有馬くんの言うとおりだ。男が気にしていたのは美容室からの視線じゃない。たしかに空ではあったのだと思うよ」
「やっぱり天気を?」青年の言葉に、だが碓氷は首肯しなかった。
「天気という答えは、僕の仮説では半分当たりで半分外れといったところかな。正確には、男が心配していたのは太陽の位置だったんだ」
「なぜそんなものを」
「分かったぞ!」言いかけた有馬を遮って、蒲生が突如声を張り上げた。
「時間だな。太陽の位置で変わるものといえば、時間だ。陽の傾き具合で、時間がどれくらい経過したのかが分かる。被写体が何でも良かったという碓氷の仮説がある以上、写り具合を気にしていたわけではない。となると、残る可能性で写真と太陽の位置に関連性があるものといえば、時間しかないだろう。男が撮っていた写真は、ある時間帯に男が撮影場所にいたことを証明する。つまり」
言葉を切って、蒲生は両目に鋭利な光を宿した。
「アリバイ工作だ」
「さすが、推理小説研究会の卒業生だね」碓氷はいくらか皮肉混じりの調子で友人を賞賛した。
「男は車の写真を残しておくことで、自らのアリバイを確保しようとしたんだ。撮影手段がスマートフォンだった理由も、アリバイ工作に深く関わっている」
「時間なら普通のカメラにだって表示されるじゃないですか。それに、いくら太陽の位置で時間帯が分かるといっても、早朝や夕方でない限り写真に写った光の具合から時間を特定するなんて難しいですよ」
若き美容師は納得がいかないというように首を横に振る。碓氷は余裕綽々の笑みを浮かべて、
「もちろん、ただ時間を証明したいだけなら普通のカメラでも可能だろうね。でも、さっき蒲生が話したように、男が写真を撮っていた目的はアリバイ工作だ。だとすれば、撮影した瞬間の時間が記録されていたところで、それは何の意味もなさない。つまり男の目的は、有馬くんが男を目撃していた時間よりもずっと前から、自分がパーキングエリアにいたことを証明することにあった。その証拠として、車の写真を撮っていたのさ」
「でも、男が撮影した写真に残る時間は、僕が男を目撃した時間ですよね。実際の撮影時間より前の時間をどうやって写真に記録するのですか」
有馬青年の詰問にも、碓氷は動じる素振りをまったく見せなかった。泰然と椅子の背に凭れかかると、
「簡単なことなんだよ、意外とね。男はデジタルテクノロジーの恩恵をアリバイ工作に悪用したんだ」
「何だか難しそうに聞こえますけど」美容師の男は両目をぱちくりとさせる。碓氷はにこりと微笑むと、
「男が写真撮影にスマートフォンを使った理由は、他でもない、スマートフォンがアリバイ工作に利用しやすかったからだ。撮影した写真の場所や日付、時間を変えることができるアプリが使えることを男は知っていたのさ」
「えっ、そんなアプリがあるんですか」
「実はね。つまり男は、撮った写真の時間をその便利なアプリで変更して、万一警察にアリバイを問われたときに、事件が発生した時刻には現場から離れたパーキングエリアで写真を撮っていたと証言するつもりだった。空模様を気にしていたのは、せっかく写真の時刻を変えても、陽の陰り具合からアリバイ工作を行ったことが露呈しては意味がないと危惧したから」
「じゃあ靴の問題は」
「きっと、有馬くんが男を目撃したとき、彼は犯行現場から急いで戻ってきた直後だったんだろうね。犯行現場には、革靴に相応しいスーツなんかで向かったんじゃないかな。犯行現場付近で自分の姿を目撃されるリスクを考えて、車の中に着替えを用意していた。犯行を終えパーキングエリアに戻ってから慌ててジャージに着替えたんだろう。だが焦っていて靴を履きかえるのをうっかり忘れていた。そのちぐはぐな姿を、運悪く有馬くんに目撃されてしまったんだ」
「まさか、その男が関わっていた犯罪の中身も予想できているとか」
有馬の問いかけに、碓氷はひょいと肩を竦める。
「さすがにそこまでは。ただ、仮にこの界隈で殺人のような大きな事件が起きていたらニュースになるだろうけど、最近そんな報道があった記憶はない。新聞にも思い当たるような記事はなかったし、メディアで取り上げられるほどの重大事件ではなかったのかもね。個人の家に営業マンを装って空き巣が入ったとか? いずれにせよ、僕が有馬くんの話から推論できるのはここまでだ」
『あ、碓氷。暇か? え、暇じゃないって。まあいいや、五分で終わるからちょいと聞いてくれ。この前の話だけどさ。ほら、有馬の、車の写真を撮っていた男の話。あれを蘇芳おじさんに話してな。いや、親戚の集まりで酒の肴に。それが聞いて驚くなよ、実はつい数日前、それこそ有馬が件の男を見た二、三日後だ。ある資産家の家に空き巣に入った罪で逮捕された奴がいたんだと。そうだよ、有馬が見た例の男だ。逮捕されてすぐ、有馬が面通しで顔を確かめて間違いないって。何でも、被害者である資産家の秘書らしくてな。屋敷が無人のときを狙って、さも仕事で訪れたかのような体で堂々と侵入して金を盗んだんだと。秘書の男は借金まみれの身で、資産家がたんまり貯め込んでいる金に目が眩んで犯行を、ってとこか。で、男が写真を撮っていた車は仕事用に資産家から借りている車で、盗んだ金で同じ車を買って知人に自慢するつもりだったらしい。まったくお前ってやつは、安楽椅子探偵の宿命を背負ったような男だな。はは、そうぷりぷりするなって。実はな、これから有馬にも今の話を聞かせに行くところなんだけど、お前も付き合うか。あ、そう。え? それなら大丈夫。おじさんには許可取って、他言無用の旨を釘指しておけばいいと仰せつかっている。有馬も驚くだろうなあ。あいつが言っていたことも当たらずとも遠からずだったし。ほら、これが万一犯罪だったら、証人として役に立つんじゃないかって話。ま、今回はお前と有馬のお手柄を蘇芳おじさんも褒めていたぞ――じゃ、そういうことで。またな』
この頃ネタ欠乏症で、話は書くけれど個人的な出来はいまひとつ……という作品が続いています。ネタの女神がどこからか舞い降りてこないだろうか。