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問題篇


 碓氷にとって、大学来の友人である蒲生の、彼が方々から拾ってきたミステリ話に付き合わされることは一種の決まりごとになっていた。それは、月に一度開かれる町内会の会合や、医科大学の学会のようなものだった。

 その日も、街の外れにぽつねんと位置する喫茶店内の一角に、彼らはいた。ただし二人きりではない。ゲストが招かれていたのだ。二十代とおぼしきその青年は、胸のあたりに無意味な英字の羅列がプリントされたTシャツと、膝頭のあたりが破れたジーンズをさらりと着こなしていた。足元はカジュアルなスニーカーを合わせ、いかにも現代の若者めいた身なりだ。紺色のマリンキャップを膝の上に置き、落ち着かない様子で店内をきょろきょろと見回している。

「どうした、初めての店で慣れないのか」蒲生が可笑しそうに忍び笑いする。Tシャツの青年は照れたように頬を掻くと、

「こういうお洒落な店って滅多に行かなくて」

「美容師なら女の子を誘ってこんな店によく行くものかと思っていたが」

「偏見ですよ。美容師イコール遊びなれているってわけじゃありません」

「まったくその通りだな。ひどい固定観念だ」

 碓氷の呆れ声に鼻息を返し、蒲生はウエイトレスに珈琲二つとアイスカフェラテを注文する。

「さっきも言ったと思うが、碓氷はこう見えてなかなか頭がきれるというか、他の人たちとは少し違ったものの見方ができる奴でな。推理小説研究会に在籍していた俺が保障するから、有馬くんが見たという奇妙な光景について、一度こいつにも聞かせてやってくれないか」

 蒲生に肩をぽんと叩かれ、本日のゲストである有馬悠(ありまゆう)はこくりと頷く。そして視線を左上に彷徨わせながら、ゆっくりとした口調で語り出した。



 僕が働いている美容室は、狭い通りの一角に店を構えていて、向かいにパーキングエリアが一つあります。僕は自転車で通っているので利用したことはないですが、だいたい十台ちょっと入るくらいの小ぢんまりとした屋外駐車場です。

 その日は、美容室自体は定休日だったのですが、僕は店に向かっていました。美容室は二階建ての一階に店舗を構えていて、二階にはカットの練習場所として自由に使える部屋があります。従業員は店長と僕をあわせても五人しかいないのですが、時々顔を出すとだいたい誰かがカットの練習をしていますね。問題の日も、午前中にちょっとだけ練習しようと思って店へと自転車を走らせていました。

 店のすぐ傍まで来たときです。先ほどお話した向かいの駐車場に、一人の男がいました。キャップを被っていて、ちょっと古そうなジャージを着て、スマートフォンで車の写真を撮っていました。写真を撮るときの、カシャンカシャンって音が僅かに聞こえたんです。店に入って二階の練習部屋から外をのぞくと、やっぱり車の写真を熱心に撮り続けていて、そのときは『よほどの車好きなのかなあ』とぼんやり考えただけでした。

 でも練習を終えて家に帰ると、あの男がなぜ車の写真をあんなに夢中で撮っていたのか、急に気になり始めたんです。本当に車好きで自分の愛車の写真を撮っていたのか。実はパーキングの管理人で違法駐車をしていた車を記録用に撮影していたのか。色んな考えが頭の中を目まぐるしく回り続けて、今でもその光景が頭を離れません。それで、店の常連である蒲生さんにお話したところ、今日ここに招かれたわけです。



 運ばれてきた珈琲に砂糖とミルクを投入しながら、碓氷はのんびりと口を開く。

「その男が駐車場の管理人なら、キャップやジャージは管理人の制服である可能性が高いけど、そんな感じの服装だったのかい」

「そこなんです。よくよく思い返すと、あそこの管理人を前に一度見たときは、たしかオレンジ色の派手なキャップを被っていました。ですが問題の彼はベージュの地味な色のキャップでした。ジャージも、ユニフォームというよりも薄汚れた作業着みたいだったし、管理人らしくなかった気もします」

 膝の上のマリンキャップを弄びながら、有馬は意見を述べる。それから思い出したように目の前のアイスカフェラテ入りのグラスに手を伸ばした。

「男が管理人でないとすると、パーキングの利用者ってことになるよな。誰かに愛車を自慢するために、わざわざパーキングエリアで写真を撮っていたのか。かっこいい写真を残したいなら、他にいくらでも写真映えする場所があるだろうに」

 ブラック珈琲を三分の一ほど減らした蒲生は、両腕を組んでソファ椅子に背中を預ける。

「パーキングエリアという場所に理由があるとすれば、やはり違法駐車か」

「もしかして、車のナンバーを控える代わりに写真を撮っていたのかも」有馬の手の中でグラスが揺れる。あやうくジーンズにカフェラテの染みをつくりかけ、慌ててグラスをコースターの上に置いた。

「実は、美容室からほど近いところに中古車の販売店があるんです。彼はそこに車を売りに行って、書類にナンバーを記載する箇所があったけれどナンバーを覚えていなかった。だから、わざわざ駐車場まで戻ってナンバープレートを撮影した」

「その中古車販売店には専用の駐車場はなかったの」碓氷が問いを挟む。

「五台くらいしか停められない小さな駐車場なんですよ。彼が来店したときは運悪く満車で、仕方なく近くにあったパーキングを利用したのかもしれません」

「流れは自然だけれど、一つ気になることがある。単純にナンバーが必要なだけだったら、写真撮影は数十秒もあれば充分だ。だが有馬くんの話にると、美容室の近くで男を目撃した後、店に入り二階まで上がって、窓からもう一度外をのぞいて再び男を見たんだよね。その間、最低でも一分以上は時間があったはず。有馬くんが店の近くに来たとき、男はすでに写真を撮り始めていた。要するに、写真一枚を撮るのに時間がかかりすぎているんだ」

「言われてみればそうですね。それに、カットの練習中に何度か外をのぞき見していたのですが、少なくとも僕が店に来てから一時間近くは写真を撮り続けていたんじゃないかな。いくらスマートフォンでの撮影に慣れていないといっても、一枚の写真にそんな時間がかかるとは考えにくいですね」

 美容師の青年は素直に頷くと、両腕を組んで難しげな顔で宙を見上げる。二人の対話を黙って聞いていた蒲生が、ぱちんと軽快に指を鳴らした。

「分かったぞ。男はパーキングエリアで自分の愛車に傷をつけられた、いわゆる当て逃げされたんだ。だが運転手は車の中にいないし、自分が戻ったときに相手の車がいなくなっているかもしれない。だから車の傷や相手のナンバーを写真に収めて、あとから警察に相談するつもりだったんじゃないのか」

「その可能性はありそうですね。彼が撮影している車の横にも、他の車が停まっていましたから」

 同意を求めるように有馬と蒲生から視線を向けられ、碓氷はほっそりとした顎を撫でながら考え込む。

「筋は通っているね。当て逃げは証拠をいかに多く手元に残しておくかが重要だから、相手車両や傷つけられた自分の車両の写真がたくさんあるほうが、警察に相談するときに便利なんだ。相手車両が盗難車なんかでない限り、証拠があればわりと簡単に犯人を特定できるらしいし」

 ただ、と小さく付け加えた碓氷に、有馬が「ただ?」と鸚鵡返しをする。

「その男、その場で警察に通報しなかったのかな。相手の車が停まっていたなら、当て逃げ犯が戻ってくる前に警察に連絡しておけば、警察がその場で犯人と交渉できる可能性が高い。有馬くんは、美容室にどのくらいの時間いたの」

「二時間くらいですかね。十一時前に美容室に着いて、十三時くらいに帰りましたから」

「その二時間の間で、警察が来ていた気配は」

「サイレンの音は聞こえなかったし、途中でちらちら窓の外を見たときも警察がいる様子はありませんでしたよ」

「となると、男は警察を呼んでいなかった。当て逃げされたにしては対応が悠長な気もするけどね」

 一同の間に暫しの沈黙が下りた。碓氷と蒲生は冷めかけた珈琲を、有馬青年はアイスカフェラテを啜りながら、各々思案に耽っているようだった。

「そもそも」珈琲を飲み干した碓氷は、ソーサーにカップをそっと戻すとおもむろに切り出した。「その車は、本当に男の所有物だったのかな」

「他人の車を撮影するのが趣味だったとでもいうのか」蒲生は眉根を寄せて友人を見やる。

「その考えも面白いね。他にこういう仮説はどうだろう。たとえば、その男は本当は自分の愛車なんて持っていなかった。だがうっかり口を滑らせて『自分も立派な車を持っている』とか『最近車を買ったんだ』とかいう話を誰かにしてしまう。言ってしまった手前、嘘だったなどと弁解もできない。だから、他人の車をさも自分の愛車のように写真に収めて、何とか嘘を繕おうとした」

「車をステータスの一つとして考える男も多いからな。俺にはよく分からんが」蒲生は小さく両肩を上げると、珈琲が僅かに残ったカップの底を見下ろす。有馬は右手の拳で左の手のひらを叩きながら、

「だからあの人、空をやたら気にしていたのか」

「空を気にする?」碓氷が怪訝そうに訊ねる。

「その男、写真を撮っている最中、時々空を見上げるような動作をしていたんです。最初は雨が降らないか気にしているのかと思ったのですが、その日はからりとした晴天で、雨なんて一ミリも降りそうにない青空でした。でも、誰かに自慢するために車を撮影していたのなら納得がいくんです。ほら、写真を撮るときに光の加減とか角度とか気にする人いるじゃないですか。あれと同じです」

「空を気にする、か」碓氷は意味ありげに繰り返すと、空になった陶器のカップを意味もなく手で弄び始めた。彼は考え事をするときに無意識に手遊びをする癖があるのだ。友人の癖を承知している蒲生は、特に気にするふうもなく美容師の青年に質疑を続ける。

「さっきの碓氷の言葉だけどさ、その男が撮影していたのは本当に自分の車だったのかな」

「だと思いますよ。だって、車のドアを開閉しているところを見ましたから。本当の持ち主が鍵をかけ忘れたのでない限り、彼の車なんじゃないかな」

「車がその男の所有物でなかった場合、車荒らしの犯人だったとも考えられるが、それならさっさと車内を物色してすぐに立ち去りそうなものだよな。実際、有馬が証人として男を目撃しているわけだし。犯行現場に長居することは犯罪者にとってリスキー以外の何ものでもない」

「たしかに。道路に面した人目につきやすい場所っていうのも不自然だし――あ」

「どうした」

「いえ、大したことじゃないのですが。ちょっと気になることを思い出して。その男、色褪せたキャップによれよれのジャージという格好ではあったのですが、靴だけが妙に真新しいというか、きちんとした革靴だったんです」

「よくそんな細かいところまで見ているな」

「一度ひっかかると、つい細部まで観察しちゃう癖があるんです。あり得ないでしょうが、万一彼が何かしらの犯罪に関わっていたとすれば、自分はかなり警察に貢献できる証人なんじゃないかなと思ったり」

 鼻の下を擦る仕草をし、にへらと笑う有馬青年。蒲生は飲み干した珈琲カップを脇に押しやり、「警察から感謝状をもらえるかもな」と冗談めかして返す。

「まあ、駐車場で車の写真を撮っているってだけで犯罪に結びつけるなんて飛躍がすぎる話だが」

「そうとも限らないんじゃないかな」

 碓氷は突然、二人の会話に割り込んだ。そして口をぽかんと開け間の抜けた顔をする蒲生に、

「駐車場で車の写真を熱心に撮り続けていた男が、実は犯罪に関わっていた――そんな筋書きを、僕は今までの話から組み立てることができるけれどね」

 とっておきの悪戯を閃いた子どものように、にんまりと笑いかけた。

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