寝室と奴隷ちゃん~悪徳商人初めての夜~
あらすじを前提に話が進みます。読まれていない方はご注意ください。
また、ヒロインは16歳前後を想定しております。同ヒロインの年齢描写は今後投稿する短編でも見られると予想され、今回は省略させていただきました。
体の汚れを落とし、ようやく眠りに就こうとした所で気がついた。
彼女の寝床を考えていない!
俺は、寝室まで大人しく付き従ってきた背後の少女を見やる。「ナリア」と名乗った金髪の彼女は、まだ幼さが残るとはいえ既に立派な女の子だ。男と寝かせて良い相手じゃない。
というか、このままだと俺は買い取った少女を寝具に侍らせる悪徳貴族も顔負けの鬼畜になってしまうのではなかろうか。いや、理由がどうであれ金を払っている時点で悪徳商人には違いないのだが。これ以上の堕落は避けなければならない。
「ナリア、ちょっといいか?」
俺は下を向いている彼女に対して声を掛けた。
びくり、とナリアの肩が竦む。
「は、はい、何でしょうかっ」
強張ってガチガチの彼女と目があった。返事もひどく上ずっている。見ていて可哀想になるくらい彼女が恐怖に支配されているのが分かる。一緒に眠らせるのは、あまりにも残酷な話だろう。
これ以上刺激しないようできるだけ落ち着いた声を作らなければ。
俺は肩の力を抜きながら、部屋に備え付けられたベッドを指し示した。
「ベッドはあれを使ってくれ。臭いが気になるようなら、……悪い。俺は下で寝ようと思う」
「えっ! それはどういう……」
ナリアが青い目を大きく開いて見せる。何やら言いたげだ。一人で眠れないなんてことはないと思うが、どうしたのだろう。
「何か気になるか?」
問いかけると、ナリアは「恐れながら」と小声で漏らした。彼女の瞳には弱々しい中にも小さな意志の光が宿っている。恐怖を抱えながら勇気を振り絞っているようだ。そこまでして伝えたいのだろうか。
俺はさり気なく続きを促す。ナリアは出だしで躓きながらも話し出した。
「私が見せていただいた一階の部屋には、寝具のようなものは見当たりませんでした。ご主人様は、どこでお休みになられるおつもりですか?」
奴隷として何をされるかも分からない身でありながら、俺を、周りをよく見ている問いだと思った。いや、恐れているからこそよく見ているのか。自らの身を自分で守るために。
ただ震えているだけのように見えて、意外としっかりしているらしい。
「ああ、寝床についてなら気にするな。俺は床で寝ようと思う」
きっかけさえ掴めれば、普通に話せるようになるんじゃないか。膨らんだ期待はまだ胸に押し込め、ナリアに答える。売り場の方からブランケットを取ってくれば、寒さの心配はないはずだ。
二年前まで暖炉の側が定位置だったのを思えば、俺としては今さら気にすることもない。……のだが、
「なりませんっ! ご主人様が土埃の中でお休みになられるなど……!! 私を床に転がしてください!」
事情を知るはずもないナリアを青ざめさせるには十分だったようだ。必死の形相で説得されてしまった。奴隷としては当然の反応、なのだろうか。ものすごく萎縮されているのが分かる。
素直に受け取ってくれて構わないのだが、好意は中々伝わらないらしい。長旅で疲れているだろうに、きっちりしているというか上下関係を分かりすぎているというか……。
土につけるのは許可できない。俺はやむを得ずナリアに語り掛けた。
「悪いがお前が床に寝るのはなしだ。一人で寝るか、俺と寝るか、どちらか選んでくれ」
彼女を不幸にしたくて引き取ってはいないのだ。これだけは譲れない、と威圧しない程度に硬い態度を示す。
ナリアは「うっ」と言葉を詰まらせた。凛とした面持ちがみるみる翳り、小さくなっていくのが分かる。困り果て考えているようだが、こればっかりはどうしようもない。
燭台だけが頼りのほの暗い部屋で、時間の流れが滞る。
夜風を入れた方が良いだろうか。
「ご主人様の隣で休ませていただきたく存じます……」
窓を開けようとしていると、背後から絞り出された声が届いた。
「そうか。分かった」
俺は向き直り、ナリアに頷いてみせる。
応じながら少し卑怯な質問だったかも知れないと思った。多分、ナリアは「俺と寝る」と答えるより他になかったはずなのだ。
だが、今さら悔いても仕方がない。今日の所は休息が第一だ。早く横になってしまおう。
靴を脱ぎ、俺から先にベッドへ潜り込む。体勢を整えやや窮屈な天井を仰ぐと、どっと疲れが押し寄せてきた。どうやら俺も今日一日相当に気を張っていたらしい。
「ナリア、入らないのか?」
呆然と立ち尽くしていたナリアに声を掛ける。毛布を持ち上げ隣へ促す姿は、もしかしたら間抜けに見えるかもしれない。
「あっ、はい!」
ナリアは慌てたようにパタパタと駆け寄ってきた。動きに気を取られたのだろう。無防備な姿が可愛らしい。しかし、余裕でいられたのはそこまでだった。
しなやかなものが、隣にするりと滑り込んでくる。緩やかに束ねた長い髪をさらりと揺らしながら。薬湯から上がったばかりの清潔な香りと微かに甘い香りをその身にまといながら。
肌こそ触れ合っていないものの、あたためられた空気が俺まで伝わってくる。「元」とはいえ、お嬢様の「気配」とでも言うべきだろうか。汚れた育ちの俺が触れるのも躊躇われる、しかし惹かれて止まない気配がすぐ隣にある。
今まで何をしていたんだろう。本当に見るのと感じるのでは大違いだ。
男として、しばらく平常心で話しかけるのは無理かもしれない。七つは違う娘に、情けない話だ。
「……落ち着いたら、ロウソクを吹き消してくれ」
背を向けながら、燭台に近いナリアへ何とか消灯を頼む。返事で「ご主人様」と呼ばれないこと祈った。今の俺には悪魔の誘いにしか聞こえない。
「はい、分かりました」
身構えてみたものの、ナリアの声は意外に落ち着いている。多少硬いが俺より平気そうだ。まだ距離があるからだろうか。少し恥ずかしい。
隣で息を吐く控えめな音が聞こえて、部屋が暗闇に飲み込まれる。衣擦れの音が続いて、静寂が訪れた。ナリアから寝息は聞こえない。
背後が気になって仕方ないが、感覚は睡魔にどんどん塗り潰されていく。体は何よりも休息を求めているらしい。
「……おやすみ、ナリア」
思考もぼやけてきた中で小さくつぶやく。無論、背中は向けたままだ。ナリアに届いているだろうか。正直怪しい。
返事を確認する間もなく、俺の意識は闇へと溶け込んでいった。
***
「――おやすみなさいませ。ご主人様」
聞こえたはずの挨拶に私は小声で返した。隣からは規則正しいゆったりとした鼻息が聞こえてくる。挨拶は届いていただろうか。
不思議な感じ、とぼんやり疲れた頭で思う。こんな温かい寝床にいられるなんて。
買い手がついたら、ぐちゃぐちゃにされると思っていた。壊れるまで弄ばれると思っていた。それなのに、私はベッドの上にいる。裸に剥かれた玩具が飽きられて転がされている訳じゃない。体はまだ修道院に閉じ込められていた頃のままだ。お父様が娘をやる先を考えていたあの頃のまま――。奴隷に落ちてしまったけれど、今の方が遥かに穏やかに思えた。
ご主人様はきっと、無意味に暴力を振るわれる方じゃない。私の血筋に強い恨みを抱かれている可能性も低い、と思う。分からないところはたくさんあるけれど、いきなり殺されることはないはずだ。……多分、いきなりは。
私は、ハーブティーを淹れていただいた挨拶の席で、ご主人様に何ができるか尋ねられたことを思い出す。「文字や簡単な数を扱える」と答えたら、ご主人様は大変お喜びになられていた。
私はきっと「役に立つ」と期待されたのだ。だからこそ、優しく扱っていただけている。ご主人様を失望させないため、私は何としても自分に利用価値があると示さなくては。人が役に立たないものに無関心なのは、お父様を見てよく知っている。非力なものに価値を探すとき、とても残酷になれることも。
この国のことも、お店のことも私には何も分からない。それでもやるしかないのだ。
気を引き締めようとしたけれど、うまく力は入らなかった。長い間荷馬車に積まれていたせいか心も体も思うようにならない。仕方なく私はブランケットを鼻まで被る。
温かい。一人じゃない。やっぱり変な感じだ。明日にでもなくなってしまう幸せなのに、どこかで安らぎを感じてしまう。すぐ側にある静かな気配、私を包むご主人様の匂い。この夜の優しさは、ずっと幼い頃に憧れていた夜に似ている気がする。
誰かに守られて落ちる眠り。これが嘘と幻であることは分かっている。それでも今の私には贅沢過ぎるものだ。私が知らなかったもの。これからも知るはずのなかったもの。神様が見せてくださる最後の夢なのかもしれない。
気がつけば、目頭の辺りがじんわり熱くなっていた。
声を上げて泣くほどじゃない。ただ込み上げてくる。自分ではどうすることもできない感情。――寂しい、辛い、怖い。一言では説明できない気持ちの塊が、どろどろと熱を持ってとめどなく溢れてくる。
私は堪らず寝間着の袖を顔に押し当てた。とにかく心を落ち着けなくては。
チカチカする視界の中で、思いは容赦なく駆け巡る。苦しい。苦しい。気を抜くと声を漏らしてしまいそうだ。
自分自身が暴走している理由も分からないまま、私は必死に音を立てない深呼吸を心掛けた。ご主人様の眠りを妨げることは避けなければ。心証を悪くしてはいけない。勝手にうろたえているだけなのだから。
長い呼吸を何度も繰り返していると、感情の波が少しずつ引いていくのが分かった。それに合わせていっぱいいっぱいだった頭の中がすーっと静まり返っていく。動揺はもうすぐ収まるはず。もう大丈夫、もう大丈夫。
最後の息をゆっくり吐き出すのと同時に、全身に大きな疲労感が広がった。一日の疲れとは別の、たった今消耗してしまった感覚。もうこれ以上考えることも感じることも難しい。心がボロボロだ。
このすっきりとしない安定感こそ、私のよく知る安らぎだと思う。誰かに与えられるわけじゃない、自分一人で得られる休息。奴隷が抱えていい幸せは、きっとこれくらいのものだ。立場以上の期待をしてしまうのは怖い。当然の扱いを受けて傷ついてしまうのは怖い。
夢はもう覚めていい、と思った。今日の思い出で、きっと私は最期まで頑張れる。だから、道具の私に続きなんて必要ない。いや、恐らく続きはないのだ。私は役に立てないだろうだから――。
家事、お手伝い、幾つの失敗をするだろう。何度ご主人様を裏切ることになるだろう。これ以上考えると眠れなくなる気がして、私は考えを打ち切った。
ありがとうございました。何ができるかも分からないけれど、お役に立てるよう頑張ります。最期まで尽くします。だから――。
この先は、私の望んでいいものじゃない。
主への忠誠を誓いながら、私は擦り切れかけた自分の意識を放り出した。
お付き合いいただき、ありがとうございました。