九. ~鬼の迷走~
桜は確実に壊れている。
桜の口から「殺して」などという言葉が出てくることは考えられなかった。俺はこの家にいることに恐怖を感じだしていた。爪崎の件で神島市に帰らなければならない。そう言い訳をつくり、荷造りを急いだ。しかし、桜はそんな俺を逃してはくれなかった。桜は俺が村を出ると言ったあの日から俺に異常な好意を持つようになっていた。荷造りがもう少しで済むかという頃、桜は俺の首に手を回してきた。背中にあたる膨らみを意識せざるを得ない。桜はきっとわかってこうしているのだろう。そして、甘い声で言うのである。
「丞ちゃん、私もついていっちゃ駄目かな? もう、私には丞ちゃんしかいないし、丞ちゃんがいるところが私の居場所なの。私達はいつも一緒がいい。丞ちゃんもそう思うでしょ」
俺は戸惑って「そうだな」としか答えられない。
「それにお姉ちゃんのかたきが殺されるところを私も見てみたいな」
背筋が凍った。さきほどまで感じていた膨らみなど、もうどうでもよくなっていた。とにかく桜から離れなければならない。そのことが頭を支配した。
荷造りができ次第、俺は書き置きを残して早朝に逃げるように家を出た。桜はまた独り置いていく俺を恨むだろう。だが、これ以上一緒にいても、良い方向に進むとは思えなかった。
神島に着いたのは午後を回ったときだった。村に帰ったときとは逆で、狭く低い冬の空が広がっていた。そういえば、柚葉に連絡を入れておくのを忘れていた。今日は学校も休みだし、連絡しておけば、家に着いた頃には昼食が準備されていたかもしれない。そんな考えが浮かぶのは、実家を出て少し気楽になっていたかもしれない。そう、思っていたときだった。
「やっと見つけましたよ、お兄さん。警察の目をかいくぐって探していたっていうのに、まったく見つからないから焦ってしまいましたよ」
今、最も会いたい相手の声が俺の耳を刺激する。だが、これはあまりの不意打ちであり、俺はすぐに言葉を発することができなかった。
「どうやら、びっくりしているようですね。私の方から接触するとは思いませんでしたか」
爪崎のギラつく目を睨み、心を落ち着けようとした。
「被疑者として警察に追われているお前が俺に何のようだ」
そう言うと爪崎は大げさに腕を広げた。小馬鹿にされているようで、腹が立つ。やはりこいつのことは好きになれそうにない。
「用があるのはお兄さんのほうじゃないですかね。まったく容疑なんてかけられて困っちゃいましたよ。運が悪いったらありゃしない」
しばらく睨み合いが続いているうちに――爪崎は睨んでいるつもりはなかったかもしれない――聞きたいことを整理した。
「お前は桐子と神島で接触している。猟奇殺人を調べていた姉さんの死に関係しているんじゃないのか」
俺たちを除いて桐子と会っていたのは今のところ爪崎だけである。最も怪しむべき存在といえるだろう。だが、爪崎はそれを笑い飛ばした。
「まさかっ! 私はしがない情報屋ですよ。殺しなんて小便ちびってしまいますよ」
「じゃあ、桐子について知っていることを全部話せ。桐子はお前に何を依頼した」
爪崎は通りにある喫茶店を指さして、「お茶でも飲みながら話しましょう」と提案してきた。長い話になるということだろう。
喫茶店は外から見るよりも広く感じ、カウンターにはいくつものサイフォンが置かれていて洒落た雰囲気だった。薄暗い照明で木を基調とした内装をより良く感じられる。爪崎はそんな店の一番奥の席を指した。席に座るとクッションのほどよい柔らかさを感じた。
「いい店でしょう。私もたまに使っていましてね。まあ、常連とまではいきません。何か飲みますか?」
友人か、仕事の取引先を相手にするようなことを言いながら、爪崎はコーヒーを頼んでいた。俺もコーヒーを頼みながら爪崎のペースに乗せられないように注意を払った。
「もう一度聞く。桐子はお前に何を依頼したんだ」
爪崎は両肘をテーブルについて、手を組んだ。
「まあ、コーヒーがくるまで待ちましょう。そう単純な話じゃありませんしね」
この男はいつも余裕ぶっている。対話に長けているだけではないだろう。相手のことを調べたうえで、相手を挑発しながら、ときに相手にとって必要な情報をちらつかせる。そうしていつも会話のペースを掴むのかもしれない。
コーヒーが机に置かれ、爪崎は砂糖を数杯入れた後、ミルクを入れている。その表情からは何を考えているかわからない。
「お姉さんが私のところへ依頼に来たのは、あなたの学校の文化祭が終わった頃でしたね。お姉さんがこの街に来てまもなくといったところでしょう」
爪崎はコーヒーを混ぜながら話しだした。
「お姉さんは不思議な依頼をされましてね。最初はどうしたものかと思いましたよ」
依頼の内容はだいたいわかっているが、こちらは何も知らない体で話を進めたほうが良いと判断した。
「不思議とは……」
「それがですね……異形の調査です」
桐子は猟奇殺人が異形の仕業ではないかと考察していた。爪崎に異形の調査を頼んだということは犯人を見つけるように頼んだということと同様である。桐子の部屋から出てきた資料を見ても、桐子が猟奇殺人の加害者に惹かれていたことが伺えた。桐子のことだ。会って確かめたいぐらいに思っていてもおかしくない。
俺はわざと驚いたふりをした。
「異形? お前は異形なんてものを信じているのか」
爪崎は首を振った。
「いやあ、信じていませんでしたよ。そんなもの見たこともないし、聞いたことはまあ噂程度でしかありませんしね」
それが普通の人の返答であろう。爪崎のような曲者であっても、考え方は変わらないらしい。だが、爪崎は話を続けた。
「――ただ、最近になって信じるようになりましたよ」
最近ということは調査を続けてからのことだろうか。何かしらの証拠を見つけたのか。
「なぜかって顔ですね。一番簡単な方法ですよ……本物を見たんです」
――なんだと。本物を見たと言ったのか。長親と同じように犯行現場を見たのだろうか。気持ちが逸る。
「どこで見たんだ。猟奇殺人の犯行現場か? 異形というのはどんなやつなんだ」
俺の質問を聞いて、爪崎は含み笑いをした。
「まあまあ、落ち着いてください。異形の調査はしましたがね、実は最初から当てはあったんですよ」
爪崎の言っている意味がいまいちわからない。爪崎は調査する前から異形を見つけていたということだろうか。
「その当てとはですね、お兄さんのことですよ。七幸丞さん」
心臓が跳ね上がったように動悸が激しくなった。こればかりは気持ちを落ち着けることができなかった。冬だというのに汗が流れ落ちていく。爪崎はこの瞬間を待っていたのだろう。その表情に愉悦のようなものが伺える。
「何を言っているんだ。俺が異形だって?」
俺は精一杯の平常心を装って、とぼけてみせたが爪崎は確信しているのか、含み笑いを止めない。完全に爪崎のペースだった。
「初めて会ったときから気づいていたんですよ。あなたにやられた部下から聞いた話で普通のやつではないと思っていました。そして、自分の目で見て確信しました。あなたは人ではないってね。私は特別鼻が効く方でして、この手のことには自信がありましてね。それにあなた、凄惨な暴力事件を起こしているでしょう。あれを一人でやったなんて人間業じゃありません」
馬鹿馬鹿しいと突っぱねたかった。しかし、爪崎は故郷での出来事まで知っている。情報屋というのは本当だったらしい。俺は答えに窮した。
「お姉さんから依頼がきたときは傑作でした。心の中では笑いが止まりませんでしたよ。何度も言ってしまおうかと悩んだもんです。『あなたの弟が異形ですよ』と」
爪崎は完全に勝ち誇ったかのような顔で俺の目を見つめていた。眼鏡の奥のギラつきが今はとても怖い。しかし、爪崎はふいに表情を緩めた。
「なに、お兄さんが異形だとしても、猟奇殺人の犯人だとは思っていませんよ。さすがに居場所が見つかったからといって、お姉さんを殺すほどあなたは残酷ではないですしね」
――この男は。
「猟奇殺人の犯人は異形だと考えているのか」
長親が見たという狼男のような異形が確かにいるとしたら、爪崎はそちらも嗅ぎつけている可能性がある。俺が異形だということを伝えたいだけなら、とっくの昔にしているだろう。
「お姉さんに頼まれた内容は犯人探しのようなものです。結構苦労したんですがね、見つけることができましたよ。あなたじゃない異形はまだこの街にいる」
やはり、爪崎は犯人を見つけているらしい。たとえこの男の情報だとしても、桐子を殺した犯人のことは知りたい。少し休憩だというようにコーヒーを飲んでいる爪崎の次の言葉を待った。
「異形は他にもいる。あなたはそれを知っているんじゃありませんか? 知っているのに犯人から除外している。なぜでしょうかね」
肌が泡立つのを感じた。そうだ。この街には俺以外にもう一人異形がいる。だが、そのことを俺は考えもしなかった。
「六条ミズキ」
爪崎はその名を口にした。文化祭の夜、吸血鬼であると俺に打ち明けた担任教師の名前を。俺は強く机を叩いた。周りの客が俺たちの方を驚いたように見ている。
「六条先生が犯人のわけがない」
俺は絞り出すように爪崎に訴えた。
「彼女以外に異形がまだいるなら別ですけどね。彼女はお姉さんが猟奇殺人を調査していることを知っていたんじゃないですか?」
知っていたどころか、六条先生にそのことを伝えたのは俺である。桐子が帰郷することも桐子が殺された日の昼休みに伝えている。俺の周りの情報は六条先生に筒抜けだった。桐子の生首を俺に送りつけたのも警告の意味があったのではないか。そう考えると状況が整っていく。しかし、なぜ爪崎は六条先生が異形であることを嗅ぎつけたのだろうか。
「六条先生が異形だという証拠はあるのか」
この男は証拠を用意しているだろう。それでも確認せざるを得ない。
「そのへんは企業秘密といいたいところですがね。昔、神島病院で難病の子供が急に治ったということがあったんですよ。その関係で知ったとだけ伝えておきましょう」
それは桐子が調べていた資料に載っていた内容であろう。そして、六条先生が話してくれた事でもある。
『身内には気をつけたほうがいい』
以前、爪崎が俺に囁いた言葉が思い出される。それが六条先生のことを言っていたのかはわからないが、六条先生が犯人ならば結果としてそうなってしまっている。
――だめだ、信じるな。まだわからないじゃないか。
そう言い聞かせても、六条先生への不信感は募るばかりであった。
「直接聞いてみてはどうです? 私は怖くてとてもできないですが、あなた相手ならすんなり自供するかもしれませんよ」
そう言って、爪崎はいくらかの金を置いて店を後にした。
――そうだ。直接先生に聞くしかない。きっと六条先生はばかばかしいと笑ってくれる。今までずっと俺の味方をしてくれていたのだから。
喫茶店を出て、考え事をしていたからか、あっという間に柚葉たちの家についた。上の空で家のドアを開けると思わぬ人と鉢合わせた。
「ジョー君! 帰ってきたのね」
廊下に立っていた涼宮先生は驚きを隠せないようだった。
「涼宮先生、どうしてここに?」
別に涼宮先生が柚葉の家を訪れていても不思議ではないのだが、どうもそういう雰囲気ではない。
「ジョー君が実家に帰っている間に引っ越してきたの。入れ違いになっちゃってとても残念に思っていたんだけど、帰ってきてくれて良かった」
――そうだ。温泉旅行のときに引っ越しの準備をすると先生は言っていた。
「俺も先生とちゃんとお別れをせずに実家に帰ってしまって心残りでした。そうか、先生もここに住むんだ……」
俺は心が浮ついて仕方がなかった。さきほどまで沈んでいた気持ちが嘘のように晴れていく。相変わらず、涼宮先生と話していると幸せな気分になる。俺たちの声を聞いてか柚葉、楓さん、長親も廊下に出てきた。たいして時間は経ってないが懐かしいと感じた。
「ただいま帰りました。また、しばらく厄介になります」
と言って、俺はお辞儀をした。
「やめ給え。君は家族だと言っただろう」
楓さんの声が心に染み渡って、涙が溢れた。桐子のこと、桜のこと、六条先生のこと、いろんなことが心を乱していたが、この瞬間は忘れることができた。
「相変わらず、ジョー君は涙もろいんだから。ちょうど良かった、お昼ご飯を作るところなの。食べるでしょ」
いつもどおりの柚葉の言葉に笑顔を取り戻すことができた。そして「おかえり会いたかったよ」と抱きついて離れない長親を見てみんな笑っていた。
「実家のほうはどうだったの」
昼食の席で、柚葉が曖昧な質問をした。どう答えるべきか困る質問だ。桜のこと、桐子のこと、両親のこと、そして俺自身のことと多くの答えがあるが、話せないことも多い。
「家族で桐子をちゃんと送ってきたよ」
俺はとりあえず無難な答えをした。だが、ここに遠慮のない人がいることを忘れてはいない。
「桜ちゃんだったかな。君のせいで傷ついたと言われている子だね。ちゃんと会えたかい?」
楓さんは俺と目を合わせずにパスタを巻きながら答えにくいことを聞いてきた。柚葉と涼宮先生が息を飲んだのが伺えた。桜とはかなり深い話をした。桐子の死や俺が異形であることを受け入れたし、傷つくこととなった原因についても解決できたはずである。
「桜とは会えました。話もしっかりしてきましたが、まだまだ昔のようにはいきません」
楓さんにとってつまらない答えだったのだろう。「そうかい」とだけ言ってパスタを口に放り込んだ。少し気まずい雰囲気になりかけたが、空気の読めない長親が違う話題をしだした。
「丞がいないと学校がつまらなかったよ。また、学校に戻ってくるんだよね」
柚葉と涼宮先生がちらりと俺の顔を見た。楓さんは相変わらずパスタを頬張っている。実家に帰りたくない事情がある限り、神島で暮らしていきたいと思っていた。少なくとも桐子のことが解決するまでは、この土地を離れることはないだろう。
「まだまだ、お前とバカなことをやり足りないよ。それに若者は学校へ行くのが一番なんでしょう」
かつての楓さんの言葉を言うと、楓さんはそのとおりというように親指をビシッと立てた。楽しい話題になったことに安心していた。そして、油断していたのである。
「ミズキ先生も心配してたんだよ」
柚葉の言葉に俺は固まった。そんな俺を涼宮先生が不思議そうな顔で見ている。学校の話題になった時点で六条先生の話が出てくる可能性は高かったのである。
――だめだ。六条先生が犯人だとまだ決まったわけじゃない。みんなには気づかれないように情報を集めなくては。
「そうだな。六条先生にも心配かけたし。六条先生は何か言ってなかったか」
俺の質問に楓さん以外は何かあったかと考えているようだ。
「特に何も言ってなかったけど、最近、帰るのが早くなった気がするわね。何か用事で忙しいのかしら」
涼宮先生の話は少し気になるところである。用事があるとしたら、猟奇殺人事件がらみの可能性が高い。犯人を追っているのかもしくは……。
神島に戻った夜、その出来事は不意に起こった。夕食を食べ終わって、部屋でくつろいでいたとき、電話が鳴った。ディスプレイに表示された名前を見て、俺は息を呑んだ。
「もしもし……桜か」
「丞ちゃん? 良かった。出てくれて」
「書き置きを見ただろう。俺はもう神島にいるんだ」
「うん、わかってる。だから私も神島に来たの」
――なんだと。
「丞ちゃんと離れたくないっていうのもあったんだけど、やっぱり犯人は私が殺そうと思ったんだ。丞ちゃんは優しいもの。きっと殺せないよ」
俺が神島へ行くことは伝えてあった。桜が後を追ってくるという可能性を考えていなかったのはあまりにも甘いことだった。今の桜では何をするかわからない。
「犯人を殺すって言ったってどうやって。誰が犯人かもわかってないんだぞ」
とりあえず、なだめて会う必要があると思った。しかし――
「私、犯人の名前を聞いたの。六条ミズキ。丞ちゃんの担任の先生なんだって? 丞ちゃんまで騙して許せない!」
桜の静かな激情を聞いて、俺はひどく後悔した。あの男が桜を放っておくはずがない。
「待て、それを教えたのは爪崎という男か? そいつは危険なんだ。簡単に信じちゃいけない!」
必死で訴えたが、桜は聞いているのかわからない。
「証拠を教えてくれたわ。間違いなく六条ミズキが犯人なの。だからこれから会いに行くことにする」
「やめろ! 桜、今どこにいるんだ。これからそっちへ行くから待っているんだ」
桜は今の状況に相応しくないように笑った。
「ふふふ、待てないよ。もうすぐお姉ちゃんの復讐を果たせるんだから。待っててね、丞ちゃん」
その言葉を最後に電話は切れた。なんということだ。桜がこの街に来て、復讐を果たそうとしていたなんて考えもしなかった。いや、考えられることだったのに俺が逃げていただけだ。桜を置いてきた結果がこうなってしまうとは。とにかく、桜を止めなくてはならない。
俺の電話の声が大きかったからだろう。長親がドアをノックして部屋に入ってきた。
「こんな夜分にどうしたんだい。誰かから電話かかってきたみたいだけど、丞が大声だすなんて珍しいよね」
長親に説明している暇はない。俺は長親に出かけてくるとだけ伝えて、部屋を出た。背中から慌てる長親の声が聞こえたが無視して桜を探しに街を走った。
闇雲に街を探していていたが、桜は見つからない。焦ってきたところに、また電話がかかってきた。桜かと思ったが丘山さんからの電話だった。
「もしもし、丘山だが至急連絡したいことがある」
「なんですか? 今忙しいんですが。そうだ! 丘山さん、桜がこの街に来ているんです。事件の犯人に会うと言っていました。なんとか見つけることはできませんか?」
しばらく沈黙が続いた。何を考えているんだ。
「その桜さんだが……犯人にすでに会ったようだ。重傷で意識がない。危ない状態のようだ。至急神島病院に来てくれないか」
あまりの衝撃に電話を落としそうになった。「わかりました」と答えて、病院への道を走った。
病院には警察の姿が見られた。集中治療室に向かうと丘山さんがこっちだというように手招きをした。
「桜さんは今手術中だが、助かるかどうかは微妙らしい」
――桜が死ぬ? たとえ桜が壊れているとしても、そんなことは耐えられない。
「犯人は見つかったんですか」
丘山さんは疲れた顔をしている。
「我々が現場に向かったとき、桜さんの傍らに一人いたのを確認している」
警察が踏み込んだとき犯人がまだそこにいたというのか。
「それが誰かわかっているんですか」
「この間、心を強く持ってほしいと言ったね。今回もそれを願うよ」
とても嫌な予感がした。何かを決定づけるような予感が。
「六条ミズキ。彼女だよ」
めまいがして、俺は椅子に座り込んだ。爪崎が言ったことは本当だったのか。
「申し訳ないが逃げられてしまった。今、指名手配をしているが、まだ見つかっていない」
そうか、先生は逃げたのか。逃げてしまったのか。警察にまだ見つかっていないのは好都合だ。俺が先にみつけて……どうするんだ? 頭の中に芽生えた考えを必死で消そうとした。このままでは鬼である自分を抑えられそうにない。
「彼女は君たちに接触する可能性がある。しばらく警察のほうで警護を――」
丘山さんの言葉を聞かずに俺は走り出した。丘山さんが止めようとする声が聞こえるが構うものか。病院を出て、一直線にあの場所へ向かった。
学校は真っ暗で音ひとつしていなかった。そんな中、階段を登る俺の足音だけが響く。屋上へのドアを開けると、六条先生はいつもどおり手すりに体をあずけていた。
「きっと、君はここに来ると思ったよ」
見つけられたというのに六条先生に焦りはないようだった。ここから逃げる自信があるのかもしれない。それとも、俺のことも殺す予定なのだろうか。
「どうして桜をあんな目に合わせたんですか。桜は桐子の復讐をすると言っていた。やっぱり先生が犯人なんですね」
先生は顔を伏せているので、その表情はわからない。ただ、寂しそうだと思った。
「爪崎という男に言われたのね。状況から見て私が何を言っても信じてもらえないでしょうけど、私は桐子さんを殺してもいないし、桜さんを傷つけてもいないわ」
「そうですね。信じることはできない。だから俺が先生を殺します」
体が変化していくのがわかった。六条先生はコントロールしろと言ったが、今ばかりはできそうにない。ただ先生を殺すことだけを考えた。眼の前が赤で染まっていく。
先生は冷静さを保っているようで、一歩も動かない。
「今、わかったことがあるわ。あなたがどうして鬼の風貌になるかならないかという話をしたわね。それは傷つけられた対象と血が繋がっているかどうかということだわ。柚葉や涼宮先生の事件のときは見た目は普通だったらしいけれど、桜さんや桐子さんのことでは鬼と化しているわ。血脈を守ろうと本能がそうさせるのでしょう」
こんなときに六条先生は何を分析しているのだろうか。俺をなめきっているのかもしれない。さらに頭に血が登った俺は六条先生に向かって腕を振るった。しかし、その腕が六条先生に当たることはない。何度も何度も腕を振るった。しかし、すべて躱される。
「少し痛いけど我慢してちょうだい」
そう言って、先生は俺の脇腹に蹴りを入れた。俺は吹っ飛び痛みに苦悶した。
「私には経験があるわ。いくら強いからといっても素人のあなたでは私には敵わない」
俺はなんとか起き上がって、また殴りかかったが、ひらりひらりと躱されたうえ、またもや蹴りをくらって吹き飛んだ。次に起き上がったときには先生は屋上にいなかった。
――逃げられたか。そう思ったが、それは間違いだった。空を見上げると、六条先生はそこにいた。大きく黒い羽を広げて空に浮かんでいたのである。
「あなたでは私を殺すことはできないわ。冷静になりなさい。今から、あなたに今日あったことを話すから聞いてちょうだい。そうね、どこから話そうかしら。私はあなたが実家へ帰ってからも事件の犯人を追っていた。警察のネットワークも使って、すぐに爪崎という男が桐子さんと会っていたことを知ったわ。あの男はあなたたちにも頻繁に接触していたらしいわね。そして、爪崎が私のことを調べていたことも知っているわ」
――何を冷静に語っている。俺は頭に血が登って何がなんだか判断できない。そんな俺を見下ろしながら、六条先生はたんたんと続けた。
「今日、桜さんから私に連絡があったわ。夜に会って確認したいことがあると。桜さんが神島へ来ていることは驚いたけど、彼女は私をお姉さん殺しの犯人だと思っている。だから連絡してきたのだと思ったわ。そしてきっと爪崎に騙されている。誤解を解いて、爪崎から引き離さないと危険だと思って、約束した場所へ行ったわ。だけど、すでに桜さんは虫の息で倒れていて、そこに警察がタイミングよく踏み込んできた。騙されたと理解したのはそのときだったわ。これはきっと犯人の仕業。桜さんを利用して犯人はあなたに私を殺させるつもりなのよ」
――わけがわからない。爪崎は六条先生が犯人だと言った。桜もそう聞いたと言っていた。証拠もあると。そうだ、証拠だ。
「先生、その証拠はあるんですか……桜は先生が犯人だという証拠を知っていると言っていました。爪崎は先生が難病の少女を助けた話も知っていました」
先生は腕を組んで顎に指を当てた。先生が考えるときのクセだ。
「そう……なるほどね。どうしてこうなったのか繋がった。丞、もうひとつ大事な話をしておく必要があるわ。私が助けた少女のことだけど――逃げなさい丞!」
「撃て!」
先生が何かを言いかけたとき、屋上のドアに無数の光が見えた。そして、すぐに痛みとなって俺を襲った。苦痛に悶ながら屋上を見渡すと、マシンガンのような銃を持ち、見たこともない服装をした複数の人が俺を囲んでいた。その表情は俺を侮っているようでもあり、恐れているようでもある。
――あの銃で撃たれたのか?
本物の銃を初めて見た俺はすぐには理解できなかった。しばらく呆けていたが、ドアから入ってくる人に目が止まった。
「丘山さん……」
丘山さんはいつもの古びたコートではなく、他の人たちと同じように防弾チョッキのようなものを着ている。
「まさか、君が化物だとは思ってもいなかったよ。驚きだ。そこの女はずっとマークしていたのだけれどね」
そう言って丘山さんは地面に落ちた六条先生を睨んだ。六条先生も撃たれたようで、苦悶に満ちた表情で丘山さんたちを睨んでいる。なにが起こっているのかわからなかった。
――いったいなにが。
「私は警察局のしがない課長だがね、もう一つの役職を持っている。『警察局異形対策特殊部隊』の隊長という肩書をね」
特殊部隊。桐子の資料の中にその名前があった。本当に実在していたとは……。
「七幸丞君。君は非常に真面目でいい子だ。今だって私はそう思っている。だが異形である限り、放っておくわけにはいかない。ここで殺されるか、私たちと一緒に来てもらうか選んでくれ」
――殺される。なんでだ。俺はただ桐子と桜の復讐をしたかっただけなのに、なんで俺が殺されなくちゃいけないんだ。理不尽な通告に俺は怒りを覚えた。さきほど撃たれた痛みはすでにない。
「やめたまえ。次は生かしてはおけない。どうか投降してくれないか。投降してもらえれば、もちろん研究対象にはなるだろうが、苦しむことはない。私が保証しよう」
もう丘山さんは俺のことを人として見ていない。その表情からは何も読み取れないが、かつてのような温かいものは感じられない。心を強く持つように……。
俺は軽く笑って、丘山さんに向かって突進した。




