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吸魂鬼  作者: 腰光
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三. ~鬼の慕情~

 小さくてボロのアパートの一室。俺は耳を(ふさ)いで座り込んでいた。そうしろと母に言われていたからだ。それでも、母と知らない男の声が聞こえるのをどうしろと言うのだ。 

 声がしなくなったと思ったら、母と男が部屋に入ってきた。男は(さげす)むような目で俺を見ている。そして、力いっぱい俺を殴った。痛い。口の中が切れて気持ちが悪い。横たわった俺を男は蹴った。痛い。でも、この痛みにはもう慣れた。男が何か言っているが聞こえないし、聞く気もない。母の方を見た。その目は俺をゴミのように見ていたが、それも仕方のないことかもしれない。俺こそ母をゴミだと思っていたのだから。 


「はっ!」大きく息を吐いて跳ね起きた。

 初秋の光がカーテンの隙間(すきま)から差しているが、肌寒い。それもそのはずで、俺はびっしょりと汗をかいていた。 

 ――夢か。 

 あまりに生々しい夢だった。本当に体験したような気分で、はっきりと覚えている。しかし、俺はさきほどのような経験をしたことはない。母は俺が生まれてまもなく亡くなったと聞いているし、そうでなくても、母について記憶に残っていることは何もなく、物心ついた頃には七幸(なゆき)家で暮らしていた。 

 ――最低な朝だ。

 そう思いながら、学校へ行く準備を始めた。学校へ通い始めて二週間が経っていた。

「変な夢を見た?」 

 通学路の途中で柚葉に朝の話をした。

「どんな夢だったの? 夢占いしてあげるよ」 

 夢はとても酷い内容だったので、柚葉に教えるのは躊躇(ためら)われた。

「あ! エッチな夢でしょ!」 

 中々言い出さないでいると案の定、誤解された。柚葉はどうも俺のことを変態だと思っている節がある。

「違うよ。ちょっと残酷な夢だったんだ。DVっていうのかな。そんな親子の夢が生々しくて怖かったんだ」 

 柚葉は俺の言葉に合わせて頷いている。

「それはつまり、ジョー君はマザコンだってことだね」 

 なぜ、その結論に達するのだろうと(あき)れ返ってしまった。たしかに、母のことを考えることは多かった。しかし、どんな人かもわからないし、祖母もあまり教えてくれなかった。

「母親のことはほとんど知らない」 

 そう言うと柚葉は立ち止まり、「ごめんね」と謝った。俺は柚葉の元へ戻ってできるだけ優しい声で「大丈夫だ」と言った。一緒に過ごしてきた時間があるだけ、柚葉の方が母親への思いは強いだろう。 

 学校の話などをしながら、また歩き始めたが、夢の中のあの母親の暗い目が忘れられなかった。 

 

 学校に着き、教室に向かう途中、六条先生に声をかけられた。

「ミズキ先生、おはようございます」 

 柚葉は六条先生のことをミズキ先生と呼んでいる。六条先生と楓さんの付き合いが長いということは、柚葉も気の置けない仲なのかもしれない。俺は怖いので呼ばないが。

「おはよう。今日も仲が良さそうね」 

 否定しようと思ったが、それより先に六条先生が続けた。

「柚葉。涼宮先生から何か聞いてないかしら」 

 柚葉は意味がよくわからないという顔をしている。

「涼宮先生、ここ3日体調不良で休んでいるのよ。連絡はあるから、そこは安心なんだけど、病状がわからないから心配なの」 

 3日か。たしかに大人が休むにしては長い気もする。インフルエンザや肺炎などの重い病気じゃなければ良いのだが。

「私、放課後にすみれちゃんの家に行ってみます」

「助かるわ。私より柚葉のほうが、涼宮先生も喜ぶでしょう。でも、柚葉。先生のことを『ちゃん』付けで呼んじゃだめよ」 

 六条先生は少しいたずらっぽい顔をして言った。クールなイメージの先生だが、こんな表情もするのかと思った。

「ん? そうだ、丞も一緒に行ってくれないかしら。放課後に柚葉一人では危ないかもしれない。君がいれば、私も安心だわ」 

 六条先生は俺のことを『丞』と下の名前で呼んでいる。柚葉と同じ名字だからという理由もあるだろうが、柚葉や楓さんの親類ということで、俺との壁も薄いのかもしれない。

「ボディーガードの役目、仰せつかりました」 

 そう言ってお辞儀(じぎ)をすると、柚葉と六条先生は顔を見合わせて笑った。 


「文化祭の出し物を決めます」 

 ホームルームの時間にて、もうしばらくすると開催される文化祭について話し合っていた。長親によると、神島学院の文化祭は田舎の学校出身の俺では想像できないほど大規模なものらしい。確かなのは、イケメンコンテストやミス・ミスターコンテストというものは前の学校には無かった。

「丞は何かやりたい出し物ある?」 

 長親が隣から話しかけてきた。何でもありだと伝えられているので、決めるのは結構難しい。

「そうだな。前の学校では食べ物は禁止だったから、喫茶店とか出店には憧れるよ」

「楽しそうだけど、ベタだなぁ」 

 長親がうんうん(うな)って考えていると、一人の女子が手をあげた。

「はい! 恋愛劇がいいと思います! ヒロインはもちろん加賀君で!」 

 唸っていた長親は椅子を倒すほどの勢いで立ち上がった。

「な、なんで僕がヒロインなのさ。ヒロインは女の子がすればいいじゃないか」 

 しどろもどろになっている長親に女子は自信を持って言った。

「加賀君ならどんな女子より魅力的なヒロインになるわ。なんなら、多数決をとってもいいわよ。加賀君がヒロインでいい人!」 

 女子全員が手をあげた。男子も面白がって半数以上が手を上げている。そういう俺もその一人である。

「長親、諦めろ。どうせ、ミス・ミスターコンテストにも出るんだ。同じようなものじゃないか」 

 泣きそうな顔で訴える長親に俺はトドメを刺した。長親がヒロインの劇。人が集まりそうだなと考えていた。

「じゃあ、主人公は千早君に決定ね!」

「きゃー!」と女子から歓声が上がった。 

 ――なんだと。 

 その流れは予想していなかった。俺はまともな劇などやったことがない。それがいきなり主人公だなんて、たまったものではない。長親がにやにやしながらこっちを見ている。長親は自分がヒロインであることを忘れたのだろうか。思い出せ長親。

 「俺は転校したてだし、違う人がやったほうがいいに決まってる」 

 ささやかな抵抗を試みた。

 「いいえ。主人公は千早くん、あなたで決定。これは全会一致よ」 

 なぜだ。俺の場合は多数決もしてもらえないのか。魂が抜けたような顔をしていると、六条先生と目が合った。表情は変わっていないが、あれは笑っている。 

 そのとき、教室の扉が勢い良く開いた。

「恋の演劇とは興味津々だね。是非、私に脚本を任せ給え!」 

 楓さん、話を盗み聞きしていたのだろうが、何を急に言い出すのか。どうせ、いつもの冗談だろう。

「理事長が書いてくれるんですか!それなら、文化祭成功間違いなしよ!」 

 ――なんだこれ。

 クラスの雰囲気がおかしい。俺はこれ以上変なことにならないように、楓さんをたしなめた。

「楓さん、冗談はやめてください。どうせ、俺と長親のことを面白がっているだけでしょう。だいたい、楓さんに脚本なんて――」 

 くいくいっと長親が制服の袖を引っ張った。その表情は怪訝なものを見ているようである。

「丞。親戚なのになんで知らないのさ。理事長は有名な小説家でもあるんだよ」 

 そのときの俺の驚き様は凄まじかっただろう。六条先生のほうを見ると、先生は頭を抱えていた。 確かに楓さんは何かしているようで、徹夜になることも多かった。あの生活リズムの悪さは執筆活動をしているからか。楓さんも柚葉も教えてくれてもいいものを。俺があまりに読書をしてなかったのも原因か。しかし、ここは食い下がらないといけない。楓さんに脚本を任せたら、俺と長親の運命はどうなるか分からないのである。

「楓さん。文化祭は生徒のためにあるんですよ。生徒によって脚本から作られるのが普通でしょう」 

 楓さんは余裕の顔をしている。俺は何か間違ったことを言っただろうか。

「ジョウ君知らないのかい。神島学院の文化祭、神祭(かみさい)は教師も理事会も加わるのだよ。こんな楽しい行事に生徒だけが参加なんて(ずる)いじゃないか」 

 嘘だと思って、周りを見たら全員首を縦に振っている。六条先生も本当だと言うように、コクリと(うなづ)いた。完敗だった。楓さんが理事長であることを忘れていたのだ。

「では三日ほど待っていてくれ給え。他の仕事は後回しにしちゃうからね」

 ――最悪だ。 

 イケメンコンテストに出るだけでも恥ずかしいと思っていたのに――長親がコンテストに出る分には何も思っていなかったが――劇の主人公までやらされるとは予想外だった。この学校は静かな生活を送らせてはくれないらしい。


「ジョー君、主役やるんだって?」 

放課後、長親と教室を出たところで、笑顔の柚葉に出会った。

「ジョー君たちが劇で主役をやるってこと、もう学校中で話題になってるよ。下級生から上級生にまでファンを作ってたなんて、知らなかったよ」 

 俺も知らなかったよと心の中で呟いた。

「これは手を抜くことはできなくなったね」 

 長親はホームルームからずっとうなだれていた。 

 ――手を抜くか。

 どこかにサボってしまえという気持ちはあった。

 しかし、クラスの皆は転校生の俺をすぐに受け入れてくれた。俺がこの街で暮らしていきたいと思ったのも神島学院という存在があってこそだ。その学校で、そのクラスの皆が俺を主役に推薦してくれたのだ。手を抜くことはできない。

「そんなジョー君だけど、今日は私のボディーガードだからね」 

 柚葉が俺の肩を手のひらで叩きながら、自慢げに言った。ホームルームの衝撃で忘れそうだったが、今日は放課後に涼宮先生のお見舞いにいくのである。行くのは柚葉で俺はそのボディーガードという設定ではあるが、つまり一緒に行くことになっている。

「長親も行くか?」 

 そう言うと長親は慌てだした。

「いやー。きょ、今日はおばあちゃんの誕生日だった。早く帰らなきゃ」 

 長親は喋りながら、すでに帰りだしていた。おばあさん思いの優しいやつだなと思っていると、柚葉が俺の腕をとって、歩きだした。

「やっぱり、あの二人――」

 いつも通りのざわめきが通り過ぎていく。 


 学校を出て、柚葉について歩いていくと、綺麗だがそれほど高さのないマンションの前に着いた。

「ここが、すみれちゃんの家だよ」 

 初めはぼーっと見ていたが、女性の家の前にいると思うと、急に緊張してきた。これでは、また柚葉に変態だと思われてしまう。

「どうして、柚葉は涼宮先生の家を知っているんだ? 昔からの知り合いなのか?」 

 緊張がバレないように先手を打って疑問に思っていたことを聞いた。

「うん、昔、すみれちゃんは家に住んでたんだ。私達ととても仲良くしてくれて、今のジョー君みたいに一緒にご飯食べたりしてたの」 

 涼宮先生のことを『すみれちゃん』と呼ぶのも家族のように一緒に過ごしてきたからか。

「どうして、引っ越したんだろう」 

 そう言うと柚葉は寂しそうな顔になった。

「理由はよくわからないの。でも、家で暮らしてた頃が一番幸せだったって言ってた」 

 幸せな場所を失ってまでの引っ越しとは何か理由がありそうだが、詮索しすぎるのは先生に対して失礼にあたる。とにかく、入ろうと思ったら、玄関の自動ドアが開かなかった。

「ジョー君。ここだよー」 

 柚葉の前に番号のボタンが並んでいる。ここでコールして、本人に開けてもらうやつか。女性の住むマンションは違うなと思っていると、また緊張してきた。

 柚葉がボタンを押していく。しばらく待つが誰も出ない。

「おかしいなぁ。まさか出かけてないよね。電話してみよ」 

 柚葉が電話すると、先生に繋がったようだ。

「もしもし、すみれちゃん? うん、柚葉だよ。大丈夫かな、元気なさそうだけど――うん、それでね、今マンションの下まで来てるから玄関の鍵を開けて欲しいんだ」 

 そこまで言ってもう一度、ボタンを押し、しばらく待つと、自動ドアの鍵が外れる音がした。

「これから行くから待っててね。御見舞の品も用意してるから、ふふ」 

 御見舞の品なんて、どこで買ったんだと思いながらマンションの中を進んでいくと、柚葉はあるドアの前で止まった。柚葉がベルを押す。しばらく待つとドアが開いて、涼宮先生が出てきた。

「さ、入って」 

 先生は俺たちを促すとドアを閉めて深呼吸をした。

「やっぱり体調が悪いの?」 

 柚葉が心配して聞いた。

「ううん、違うの。急いで片付けしてたら息切れしちゃって。歳ね」 

 涼宮先生は首を傾けて、とても可愛らしい微笑(びしょう)を浮かべた。それを見た俺は軽く頭痛を覚えた。 

 先生の部屋は白とブルーの格好の良い基調(きちょう)をしていた。先生のイメージからピンクだらけだと思っていたが、さすがに大人の女性である。部屋の間取りは1LDKといったところだろうか。

「ジョー君も来てくれたのね。ありがとう」 

 そう言われると急に恥ずかしくなって頷くことしかできなかった。涼宮先生の声はとても柔らかくて、染み渡ってくるのである。

「今日のお見舞の品はジョー君です!」 

 柚葉は突然そう言うと、俺を涼宮先生の方へ押し出した。自然と先生は俺を抱きとめる。体温が急上昇したかのようだ。二人とも急いで離れて、顔を赤らめた。

「あはは。ジョー君、乙女チックね」 

 さすが、あの楓さんの妹だけある。やるときはヤるという事か。

「じょ、ジョー君がお見舞の品ってことは、えっと、あの、一緒に暮らすってことで、えっと――」

「すみれちゃん、冗談だよ!まったく子供みたいになっちゃって。お見舞の品はこれ。ミズキ先生から預かってきたの」 

 柚葉はそう言うと、鞄からケーキの箱を取り出した。

「六条先生が……心配かけてるよね」 

 どうも涼宮先生は重い病気のようには見えない。養護教諭は学校に一人だけである。疲労がたまったのかもしれない。

「すみれちゃん。体調が悪いなら、しっかり休んでね。もし、何か私達にできることがあったら、何でも相談してね」 

 柚葉がそう言うと、涼宮先生は少し考えているようだったが、ちらっと俺の方を見た。

「……大丈夫よ柚ちゃん。明日には学校に行けると思うわ」

「そっか、それなら良かった。じゃあ、今日は帰るね。元気が出るまで、しっかり休んでいいんだから。さっきも言ったけど、何かあったら気軽に連絡してね」 

 柚葉と俺は先生の家を後にすることにした。外は薄暗くなってきているし、先生を余計に疲れさせてもいけない。早めに帰った方が良いだろう。

「何もなくても遊びに来てちょうだいね。ジョー君も歓迎します」 

 涼宮先生は俺に笑顔の顔を向けた。桜に似ている。そう思った。桜が大人になったら、涼宮先生のようになるだろう。あんなことさえ、なければ。

「ジョー君。暗い顔してどうしたの?わかった! すみれちゃんとの別れが寂しいんでしょ!」 

 また、俺と涼宮先生は顔を赤らめることとなった。 


 涼宮先生のマンションを後にしようとしたとき、俺は何かを感じて、後ろを振り向いた。誰もいないし、何もなかったが、確かに視線を感じたのだ。

「ジョー君どうしたの?」 

 柚葉が不思議そうにしている。

「なんでもない――と思う。ちょっと気になったけど、俺の勘違いだったみたいだ」

「じゃあ、帰ろ――」 

 そう言いかけて柚葉は急に俺の背中に隠れた。 

 前から男が近づいてきていた。明らかに俺たちを見ている。知っている男だ。あのメガネにギラついた目。

「お兄さん。なんだ、幸せそうじゃないですか。あの後、どうしたのかと思いましたよ」 

 俺を痛めつけた当人がよく言う。

「なんの用だ。大人しくしているつもりだが、何か文句でも言いにきたのか?」 

 そう言うと、メガネの男はわざとらしく大きく手を広げた。

「いえいえ、特に用はございませんよ。ただ……あなたには興味がありましてね。もう一度会いたいと思っていたところでした」 

 何かと(しゃく)に障る男だった。

「俺はお前に興味はないし、話すこともない。もし、俺の周りで問題を起こすようなら、この前のようにはいかないからな」 

 メガネの男は静かに笑っている。

「そう言えば名乗っていませんでしたね。私は爪崎(つめさき)といいますので、お見知りおきを」 

 爪崎は自己紹介をしてきたが、こちらもやらなくてはいけない義理はない。爪崎を強く睨む。

「分かりましたよ。今度は私が大人しくする番ですかね。そちらのお嬢さんにも手出ししませんから、ご心配なく」 

 柚葉が俺の腕をより強く掴んだ。柚葉を(かば)いながら爪崎の横を通り過ぎようとしたとき、爪崎は一言、俺にだけ聞こえるような小声で言った。 

 しばらく歩いて大通りに出たとき、柚葉はやっと力を抜いたようだ。

「あの人、家の前でジョー君に暴力を振るった人? 目つきがすごい怖かったけど、ジョー君が守ってくれたから大丈夫だったよ。本当にボディーガードだね」 

 柚葉は明るく話しかけてきたが、今の俺は爪崎の一言が気にかかっていた。いや、真に受けることはない。そう心で思いながら、柚葉をちらっと見た。

「すみれちゃんって可愛いし、気立てもいいのに、なんで男っ気がないんだろう?」 

 柚葉はまったく違うことに思いを()せていたようだ。

「あれ? 涼宮先生って結婚するんじゃないのか?」 

 結婚についての会話が聞こえてきたのは、理事長室に呼ばれたときだった。

「それに保健室から後藤(ごとう)先生が出てくるのを見たって、長親(ながちか)が言ってたぞ」 

 柚葉は目をまんまるにしている。

「後藤先生と? ないない! 絶対ナイ! すみれちゃんから結婚なんて話聞いてないし、昔、後藤先生が苦手だって話を聞いたことがあるもん」 

 昔は昔、今は今だと言っても、女性の心には響かないだろう。だとすると、あの会話は何だったんだろう。相手は後藤先生じゃなかったという可能性もある。

「今度、恋バナでもしちゃおっかな」 

 柚葉は新しい楽しみを見つけたというようにご機嫌だった。

「そういう柚葉は恋バナがあるのか?」 

 柚葉はぽかんとした後、顔を真赤にした。

「な、ないこともないかなー。ほら、こんな歳にもなって恋もしてないなんて寂しいじゃない? ジョー君こそどうなのよ」 

 自分に返ってくるとは思わなかったが、自然と桜の顔が浮かび、少し懐かしい気持ちになっていたが、その顔がだんだんと涼宮先生の微笑に変わっていった。

「え! あるの? へー、あるんだ」 

 柚葉の歩幅が少し小さくなった。

「柚葉、何も言ってないだろ。どうしたんだ?」

「――なんでもないよ」 

そう言うと、前を駆けっていき、

「はやく帰ろう。今日はカレーだよ!」 

と、俺に笑顔を向けてくれた。 


 次の日、教室で、長親と昼飯を賭けて『もみあげ危機一髪(ききいっぱつ)』をやっていると、涼宮先生が教室の入口まで来ていた。

「涼宮先生、今日はこられたんですね。よかった」 

 涼宮先生に話しかけるのは、少し照れくさくて度胸がいる。

「ジョー君、ありがとう。昨日、来てくれたおかげで元気が出たの。是非、お礼をしたくて」 

 涼宮先生は昨日よりも声に張りがあり、表情も明るそうだ。やはり、それほど重い病気じゃなかったようだ。

「今日、柚ちゃんの家で料理を振る舞わさせて欲しいの。柚ちゃんはいいって言ってくれたんだけど、ジョー君は――」

「これは、涼宮先生、こんなところでどうしました?」 

 数学教諭の後藤先生だ。長親が言っていたようにスラッとした体型に綺麗な顔をしている。これなら女子生徒に人気なのも納得だ。

「い、いえ。なんでもありません。少し、千早君たちにお世話になったことがあってお礼を言っていただけです」 

 涼宮先生の表情は一気に曇っていった。柚葉が言ったとおり、涼宮先生は後藤先生が苦手なのだろうか。

「千早くん。ご苦労だったね。できるだけ僕も涼宮先生のお役に立てるといいんだけどね」

 そう言うと、後藤先生は階段の方へ歩いていった。

 あの話し方、俺も好きになれそうにないな。と思いながら、涼宮先生に向き直った。

「涼宮先生! 大丈夫ですか!」 

 涼宮先生は青くなって、今にも倒れそうだった。長親に保健室に行くことを伝え、柚葉を呼んでもらうように頼んだ。 

 保健室に着き、涼宮先生をベッドへ寝かせた。できるだけ見ないようにしながら、乱れた服を直し、柚葉を待っていた。

「ジョー君、ごめんなさい。もう大丈夫。授業に戻って」 

 涼宮先生の話し声はまだ、弱々しい。

「大丈夫じゃないですよ。やっぱりまだ体調が――」

「大丈夫なの!」 

 初めて聞いた涼宮先生の大きな声。

「先生。休んでいたのは体調不良のせいじゃないですね。後藤先生が関係あるんじゃないですか」 

 涼宮先生はびくっとして体を震わせている。今日、あれだけ元気だった先生が、後藤先生に話しかけられただけで、こうなってしまった。保健室の一件もある。関係ないとは言えないだろう。しばらく無言の時間が過ぎたが、涼宮先生がぽつぽつと喋り始めた。

「後藤先生はね、女性関係が多いので有名なの。きっとあの容姿からおモテになるのでしょうね。そんな後藤先生が私と付き合いたいと言ってきてね、私驚いちゃったけど、そういう派手な人ちょっと苦手で、お断りしたの」 

 柚葉があれだけ、涼宮先生と後藤先生の結婚があり得ないと言っていたのを思い出した

「後藤先生は振られた経験がないそうなの。だから、余計に私に執着したわ。毎日、付き合おうと話しかけてくるし、手紙を送られることも増えて、今では毎日何通も――」

「それってストーカーじゃ――」

「すみれちゃん!大丈夫?」 

 柚葉が入ってきたので、口を閉じた。涼宮先生が言ったことが本当なら、危険なことだ。できれば、柚葉を巻き込みたくない。

「大丈夫よ、柚ちゃん。ちょっと目眩がしただけ。ずっと寝てたからかしらね」 

 ふふ、と軽く笑う涼宮先生を見ていられなかった。

「今日も無理せずに帰ったほうが――」

「ううん、柚葉ちゃん。もう大丈夫。それに今日はしっかりお礼をさせてもらうんだから」

 とりあえずは元気になったようだ。しかし、原因のほうを何とかしなくては、涼宮先生はこの苦しみをずっと味わうことになる。 


 放課後、涼宮先生と柚葉と俺はスーパーに買い出しに来ていた。涼宮先生は一人で大丈夫だと言っていたが、柚葉と俺が猛反対をした。荷物持ちが必要でしょという柚葉の一言により、涼宮先生は折れた。のは良いのだが、涼宮先生はどんどんカゴに食品を入れていく。

「な、何を作るんですか先生」 

 さすがに四人前の量ではないと思い、ついつい聞いてしまった。

「それは出来てからのお楽しみってやつなのかな」 

 先生は非常に楽しそうである。腕が千切れそうなほどの大荷物を持って、なんとか家に着いた。

「おかえりー、あーっ! 涼宮ちゃんじゃないか! これまた、おかえりだね!」 

 涼宮先生に気づいた楓さんのテンションが一気に上がった。涼宮先生がこの家に住んでいた頃に家族のような付き合いだったというのは本当のようだ。

「楓ちゃん、お久しぶりね。学校でも中々会えないんだもの」 

 楓さんは神出鬼没である。学校の放送でもたびたび呼び出されている。

「今日は何が始まるのかね。こんなに食料を買って……」 

 楓さんが黙り込んだ。

「柚葉ちゃんと、ジョー君にお世話になったから、今日は私が料理を作ろうと思って」 

 楓さんはゆっくりと俺の方を向いた。

「ジョー君、頑張り(たま)えよ」 

 その一言が何を意味するのか、わからないが、不吉な予感しかしない。 

 しばらくかかるということで、少し自分の部屋で寝転んでいた。

 涼宮先生は本当に優しい人だ。だからこそ、ストーカーの被害にあっても、相手を憎みきれずに、相談できないでいたのだろう。

 今、守れるのは俺しかいない。自惚れた考えだったかもしれないが、強くそう思った。 

 そんなことを考えていると、柚葉が迎えにきた。

 柚葉たちの部屋に行くと、とても良い香りでいっぱいだった。

「美味しそうな香りですね」 

 ついつい言葉にしてしまうほどだ。

「ジョウ君。そうだろう!しっかりと食べ給え!」 

 楓さんはそう言って、俺を食卓へ誘った。 

 ――信じられない。 

 食卓には所狭しと料理が並んでいた。その量はは十人前を軽く超えている。

 楓さんの方を向くと、絶対に残すことなかれという顔をしている。柚葉はずっとニコニコしている。

「味はたぶん大丈夫だと思うわ。少し、作りすぎちゃったけど、若い男の子もいるし、大丈夫よね」 

 死の宣告は俺へとなされた。 

 料理は和洋折衷(わようせっちゅう)で、どれも美味しそうなものばかりだ。

 七幸(なゆき)家で料理担当は祖母と俺だったが、和食が多くて素朴だった。こんなに華やかな料理は初めてである。恐る恐る料理を口に運ぶ。

「うまい。美味しいです! 先生」

「本当? お口に合ってよかったわ」 

 先生は少し頬を染めて、笑った。

「まったく、涼宮ちゃんの料理は味だけは美味しい――」

「ほんと、すみれちゃんの料理は最高だよ」

 机の下で足が行き来している。

「一人暮らしだと、少ししか作らないから、やっぱり寂しいの。今日はたくさん作れてよかったわ」 

 誰もが作り過ぎだろうとツッコミたかっただろうが、涼宮先生の穏やかな空気がそれを許さない。

「すみれちゃん、やっぱり家に帰ってこようよ。今はジョー君も住んでるし、もっと賑やかになるよ」

 涼宮先生は俺をちらっと見た。

「そうね。そうなると私も嬉しいな。でも、ちょっとだけ待っててね」 

 ちょっとしんみりした空気の中、それを破るのはやはり楓さんだった。

「ほら、まったく減ってないじゃないか。しっかり食べ給えよジョウ君」 

 男、丞食べさせていただきます。量がなんだ。こんなに美味しいものを残すはずがない。

「そういえば、お姉ちゃん。ジョー君のクラスの演劇の脚本は書けたの?」

「うむ、もう少しだね。恋愛劇はそれほど得意ではないのでね」 

 文化祭の脚本、本当にまじめに書いてくれているのか。疑ってごめんなさいと心の中で謝っておいた。 

 なんとか十人前を胃袋に収め、片付けも済むと、涼宮先生は帰る用意をした。

「もう、遅いし、泊まっていったら? すみれちゃん」 

 柚葉が心配そうに声をかけた。

「大丈夫よ。それに家でやることもあるの。これでも先生ですから」 

 涼宮先生は少し胸を張った。その大きな胸を直視してしまった俺は本当に変態かもしれないと思った。

「じゃあ、ジョウ君。送ってあげ給え」 

 初めから、そのつもりだった。

「そ、その、よろしくお願いします」 

 涼宮先生は俺に頭を下げた。楓さんが意味ありげな顔で俺を見ている。柚葉は少し元気がない。涼宮先生が帰ってしまうからだろうか。


「お邪魔しました。また来ますね」 

 楓さんの「ご馳走さん」という言葉を背中に受けながら、俺と涼宮先生はゆったりと歩きだした。

「先生、今日は本当にご馳走様でした。美味しかったです」 

 そう言うと、涼宮先生は笑った。

「ふふ、本当は作りすぎたことはわかってたの。私、皆に料理を振る舞おうとすると、いっつもたくさん作っちゃってね。今日もやっちゃったなと思ってたけど、ジョー君が全部食べてくれた」 

 今日は本当に幸せそうな笑顔をしている。昨日、お見舞いにいったときの笑顔に軽い頭痛を感じた理由がわかった。涼宮先生は俺たちが来たことに安心しながらも、ストーカーに怯えていた。そんな笑顔に違和感を感じたのだ。

「先生はやっぱり笑顔が似合いますね」 

 そう言った後に、また軽はずみな言動をしたと悔やんだ。

「ありがとう、ジョー君。本当に嬉しい」 

 涼宮先生はその言葉を胸にしまうように胸の前でぎゅっと両手を握っていた。

 お互い照れながら歩いていると、涼宮先生のマンションに着いた。

「送ってくれてありがとう。それから、学校では話も聞いてくれて安心した。また、明日ね」 

 そう言うと、先生はマンションへ入っていった。

 俺はしばらくマンションを見上げていた。どうやら向こうから声をかけてくるつもりはないらしい。

「いるんでしょう。後藤先生」 

 ずっと敵意を感じていた方向を向くと、後藤先生が道の角から出てきた。

「やあ、千早君と言ったっけ。涼宮先生との馴れあいは楽しかったかい」 

 いつもと同じ飄々とした喋り方だ。

「こんなところでも何です。学校へ行きましょう」 


 学校へ着くと、体育館のほうへ向かった。体育館では何も行われておらず、鍵も空いていた。不用心だなと思ったが、今日だけはありがたい。

「こんなとこに僕を連れてきて、どうするつもりだい? 暴力でも振るうかな? 理由もないのに殴られちゃ、僕もたまらないよ」 

 俺は細身だが、背は先生よりかなり高く、力ではおそらく負けることはないだろう。しかし、後藤先生には余裕が見られた。

「涼宮先生を追いかけ回すのはやめてください。あなたのやり方に先生はとても苦しめられている」

「涼宮先生から色々聞いたんだろうけど、僕は何も悪いことはしていないんだよ。僕はすみれさんを愛しているだけさ。彼女も僕のことを愛している」 

 なんて、勝手なやつだと拳を握りしめた。

「なのに……なのにだ! お前のような奴がなんで、彼女の横にいる! 彼女を選んだのは僕だし、選ばれるのも僕だ! お前だけは許さない!」 

 後藤の手にはナイフが握られていた。

 ――また、ナイフか。 

とはいえ、あのときのような力は自分に感じられない。刺されたらどうなるかわからない。

「お前を殺して、僕はすみれさんと幸せになるんだ!」 

 もう、この人は戻れない。

 俺はどうなってもいい。後藤が涼宮先生の近くに居られなくなれば。そう思ったときである。

「ジョー君に手を出さないで!」 

 涼宮先生が体育館の入り口に立っていた。そして、先生の手には光るものが見えた。

 ――だめだ。だめだ先生! 

 俺を刺しに来た後藤は慌てて涼宮先生に向かった。涼宮先生はまっすぐ後藤の方へ走る。

 ――ドスッ! 

 脇腹に鈍痛が走る。手を当ててみると波々と血が流れていた。結構深く刺さっているのかもしれない。

 刺さっている包丁を伝っていくと、涼宮先生の手に触れた。

 ――間に合った。 

 涼宮先生は信じられないという顔で目に涙を浮かべている。そして、その顔は苦痛へと変わっていった。先生の手に血が滴る。後藤のナイフは涼宮先生の腕を傷つけていた。

 その瞬間、俺の意識は飛びそうになり、怒りが頭を支配した。 

 包丁を抜くと血が流れ落ちた。涼宮先生はショックのあまり、尻もちをついた。

 後藤のほうを向く。後藤はすでに綺麗な顔を保っていられないようだ。

「お、お前のせいで、すみれさんは傷ついたんだ! そうだ……お前さえいなければ!」 

 後藤はもう一度、ナイフを向けてきた。

 軽く横殴りに手を振るうと、後藤の腹に当たり、後藤は体育館の壁までふっとんでいった。涼宮先生が少し息を呑んだ音がする。

 ――吸っておかなければ。 

 そうすれば、涼宮先生に今後、被害が及ぶことはない。自然とそう思えた。 

 後藤の首を掴み、口から霧のようなものを吸い上げた。

 すると以前のように、自分の中にイメージが流れ込んできて意識を失いかける。

 終わったときには、やはり後藤は抜け(がら)のようになっていた。

 ――涼宮先生は! 

 怒りが冷めて、涼宮先生の方へ駆け寄ると、先生は泣いて、俺に抱きついてきた。心臓が高鳴った。

「ジョー君、ごめんなさい!ごめんなさい!」

 ――この人が愛おしい。

「大丈夫です、先生。男ってものは頑丈にできてるんですよ」 

 そう言って、傷口を涼宮先生に見せると、すでに血は止まっていた。それよりも、先生の腕の傷である。

「病院に行くと面倒なことになります。柚葉の家に行ってください。きっと何も聞かずに治療してくれます。それに、先生は保健の先生でしたね」

「ジョー君はどうするの」

「俺はここを少し片付けていきます。このままだと事件になりますからね」 

 体育館には血の跡が残っているし、後藤をそのままにしておくわけにもいかない。

「早く帰ってきて……」 

 心配そうな顔を何度も振り返って見せながら、先生は体育館を出ていった。そのとたん、俺は寂しさを感じた。

 ――また、イメージが。 

 後藤から意識を吸ったとき、前とは違ったイメージが流れてきた。この能力はいったいなんなのだろう。不安を拭えぬまま、俺は跡片付けを行った。

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