ニ. ~鬼の住処~
夜は暗いというが、確かに知っている夜はいつも暗かった。
だが、今日の夜はどうだ。灯りが煌々と照らす街の夜は昼より明るいのではないかと錯覚を起こすほどだ。
どれほど歩いただろう。昼に村を出て、当てもなく遠くまでやってきた。それからどうすれば良いのかわからなくなり、歩き続けているうちに夜になった。はじめは大きな通りをずっと歩いていたが、いつのまにか裏道ばかり歩くようになっていた。
ある暗い通りで柄が悪そうな男たちが集まっていた。その集団の横を通り過ぎようとしたときだった。
「助けてください!」
その声が耳を貫き、足を止めた。あの光景がフラッシュバックする。助けを求める桜の顔が、血を沸騰させる。
──同じだ。
「おいおい、せっかく見ぬふりしようとしたのに、止めちゃったよ」
帽子の男が振り向いて言った。
「おい、王子様、なんなら仲間に入れてやってもいいぜ」
続けてそう言うと、周りの男たちは笑い声をあげた。まだ、声を聞く余裕があるのかと、自分でも驚いた。ゆっくりと男たちの方を向く。
「やるってのか。ちっ、タッパだけはデカイ野郎だな。オラ、俺が相手してやるよ」
悪態をつきながら、手前の男が近づいてきた。どうやら前と違って、俺は普通に見えるらしい。しかし、腕を少し振っただけで、男は吹っ飛んだ。
「きゃっ!」
─―びっくりした声が聞こえる。
やはり、普通ではない。他の男達も一斉に殴りかかってきたが、結果は一緒である。最後に残った帽子の男は汗をかきながら
「兄ちゃん、顔に似合わず、強ぇじゃねーか。俺らが悪かったよ。勘弁してくれ」
と、腰を曲げた。そのとき――ドスッ! と、鈍い音が暗い通りに鳴った。
「いやっ!」
さっきより悲痛な声が横から聞こえた。
「へへ。んなわけねーだろ。よくもやってくれたな」
帽子の男は先程より少し余裕気な声でナイフを握っていた。
よくもやってくれたか。それはこっちのセリフだ。手が痛いじゃないか。
俺はナイフの刃を手の平で止めたまま、帽子の男の首を掴んで持ち上げた。
「まじか……」
帽子の男が途切れそうな声で言った。この手の男が素直に謝るはずがない。
……吸ってやろう。
ふいに、そう思った。
あのときのイメージからだろうか。本能に近いものがあった。
ぐったりとしてきた帽子の男の顔を凝視していると――
「ダメです!」
大きな声が響いた。
俺は男を落とし、男はそのまま逃げていった。カランとナイフが落ちる。
初めて、声の主を見た。いや、いるのは知っていたが、見ようとしなかった。怖かった。女性は桜や俺と変わらない年齢に見えた。髪の毛は桜より長く肩にあたるほど。少し潤んだ綺麗な目でこちらを見ていた。
大丈夫かと声をかけようとして、桜のことを思い出した。血の気がひいて、その場から逃げようとしたとき――
「待ってください!」
女の子が俺の手を掴んだ。その手の柔らかさを俺は知っている。
「ひどい怪我をしています。救急車を……いえ、これで」
と、ハンカチを取り出し、俺の手のひらに器用に巻いていく。
俺はされるがままだった。
なぜ、この子は平気なのだろうか。昼より見た目が普通だったのだろうか。それとも……。
と、考えているうちに、
「はい! 終わりました。あくまで応急措置ですからね。あとで、ちゃんと治療してください」
女の子は笑顔でそう言った。
なぜだか涙が出そうになったが、さすがに格好悪い。
「君も危ないから、早く帰りなよ」
この街にきて初めて喋った言葉だった。喉から絞り出したような声に女の子は笑顔になる。
「はい。ありがとうございました」
何度もお辞儀をしながら、彼女は大通りのほうへ歩いていった。
ハンカチからハーブと血の混ざった匂いがして、頭が冷静になってくる。
そして、また宛もなく街をあるき続けた。その夜は手の怪我を隠して、カラオケ屋に泊まった。金もたくさんあるわけじゃない。これからのことを考えなければならない。
次の日の早朝、カラオケ屋を出て、途方もなく歩いていると男たちに囲まれた。
「なあ、お兄さん、夜にウチのガキどもをやってくれたらしいじゃないですか」
ボスだろうか。メガネをかけて、だらしなくスーツを着た男が落ち着いた声で言った。わざと開けていると思われる胸元から締まった体つきをしていることがわかる。そして、メガネの奥のギラついた目が印象的だった。
「ほう、なるほどな。そういうことか」
なにかに気づいたのか、メガネの男は一人で納得したように、ブツブツ言っている。そして手を振り上げると、やる気のない声を男たちにかけた。
「まぁいいや。とりあえず、やっちまえ」
それを合図に、周りの男たちが俺を掴んで殴り倒す。
――もういいや。
何も考えずに殴られるままになっていたが、1つだけ思い残すことがあった。殴られながら、自然とハンカチだけは汚れないようにしていた。もう血で汚れきっているのに、それだけがおかしくて、笑みが浮かんだ。
「何笑っとんじゃい! 気持ち悪いやつじゃのぅ!」
誰が言ったかはわからないが、そこで手が止まったようだ。メガネの男が覗き込んで言った。
「これに凝りたら……凝りたらねぇ……ハハ! まぁいいや。ここいらじゃ、静かにしておいてください。頼みましたよ。お兄さん」
それを合図に、男たちは引き上げていった。
――はぁ、喧嘩なんてしたことなかったのに、昨日今日でなんだよこれ。
もうこのまま、どうなってもいいか。桜たちに迷惑がかからないなら。
そんな考えが浮かんだとき、
「ありゃりゃ、これはこれは」
どこか聞き慣れた言い回しが聞こえてきた。
――桐ねぇっ!
と、思ったが壮大な勘違いだった。
俺を上から眺めている女性は桐子とスタイル、顔、声や喋り方まで似ているものの、どこかまとっている雰囲気が違った。それに眼鏡をかけている。桐子が眼鏡をかけているところなど見たことがない。
「やあ、少年。生きてるかい。死んでるならラッキーかもよ。なんてったって、この私の人工呼吸、つまりチューしてもらえるかもしれないよ!」
俺は唖然とした。何を言っているんだこの人はとツッコミたくなる気持ちになったが、
「生きてます」
と、素直に答えてしまった。
「そうかい! 生きてるなら、しっかり生きなきゃね!」
俺を元気づけるように言って、女性は俺を抱き起こそうとした。
「やや。細身だと思ったが、さすがに男の子だね、とても背が高い。少年、私に抱きつき給え」
俺はどうしようかと考えたが、女性の言うとおりにし、抱きかかえられながら目の前の建物の中に入っていった。
「とりあえず部屋に入れてっと。柚! お客さん連れてきたから、こっち来てよ」
どこかの部屋に入ったらしい。
女性の部屋だろうか、柚と呼ばれた人の部屋だろうか。落ち着いた色調の部屋だ。
奥の部屋からパタパタとスリッパの音が聞こえてくる。
「こんな早くから何よ、お姉ちゃん。まったく――」
その声を聞いて、ハッとした。
少女はボロボロの俺を見て、怪しんでいるようだったが、俺の顔を覚えていたのだろう。
「あれっ! あなたは!」
と驚くを隠せないように大きな声をあげた。
また会えるとは思っていなかった。だけど、会いたいと思っていた。もう、二度とないかもしれないと思っていたものをくれた人。
昨日の少女がびっくりしたような顔で固まっている。その顔を見ながら、俺は言った。
「ハンカチ。洗ってないけど、いいですか」
まるで、数年ぶりというほど布団で寝るのは気持ちがよかった。あれほど疲れきった体が休まっているのがわかる。
路上で拾われたのち、大家であるという姉妹から部屋を貸してもらった。そこには備え付けのベッドが置いてあり、それを見てすぐに倒れ込んだ。
「しっかり休んでね」
そう聞こえたような気がしたが、意識は暗闇の中に落ちていった。
今は何時だ。外はうっすらと明るい。部屋の時計を見ると六時を指している。朝だろうか、夕方だろうか、この時期はわかりにくい。
ノックが鳴った。
はいと答えると、ハンカチ少女――勝手に名付けている――が入ってきた。少女は制服を着ている。やはり同じ年頃のようだ。
「起きられたんですね。1日経っても目を覚まさないんで、心配しました」
なるほど、どうやら倒れた日の夕方ということはないようだ。
「朝ですか?」
非常に安直な聞き方でしまったと思ったが、
「朝ですよ」とハンカチ少女は明るい声で答えてくれた。
「そうだ。手の怪我を見てみないと」
そうだった。俺はナイフで手のひらを刺されている。その痛みも忘れてすやすやと寝てたわけだ。まったく自分でも呆れる。
「あれれ?」
手を見たハンカチ少女はとぼけた声を出した。
「傷がほとんどありません!あんなに血が出ていたのに……」
自分でも手のひらを見てみた。
本当だ。傷が塞がっている。血も全く出ていない。
――あの力のおかげか。
そんなことを思った自分を心の中で笑っていた。
「不思議ですけど、よかったですね」
ハンカチ少女は安心したような顔をした。
「そうだ。あなたのお名前を聞いてもいいですか?」
少し躊躇したが、丞という名前だと正直に教えた。
「ジョーさんですか。男らしい名前ですね!そういうボクシングのマンガ見たことあります!」
真下のジョーのことだろうか。彼の放つ渾身のアッパーカットは防ぐことはできない。桐子がマネをして、俺の顎にクリーンヒットしたことがある。思い出したくない。
「ハンカチ少……君の名前はなんていうんだ」
女の子の名前を聞くなんて体験は今まででも数少ないことだった。
「柚葉です。果物の柚に葉っぱの葉です」
「綺麗な名前だね」
言った後で、なんて軽い発言をしたんだと悔やんでいたが──
「ありがとうございます!」
柚葉は素直に喜んでいた。
「おーおー、お熱いことで何より何より」
ドアの方向から違う声が聞こえてきた。
「お姉ちゃん!そんなんじゃないわよ。ただの自己紹介でしょ!」
「ふむふむ、その言い方はジョウ君に失礼じゃないかね。若いもの同士、エンジョイし給え」
俺を助けてくれたお姉さんがビシッと親指を立てている。会話からして二人は姉妹のようである。
「お姉ちゃんだって若いでしょ。あ、また徹夜したんでしょ」
眼鏡でわかりにくいが、たしかに、お姉さんの目の下にはクマができている。またということは日常茶飯事なのだろう。
「インスピレーション!──が浮かんだのだから仕方あるまい。鉄は熱いウチに打てってね」
何の話かわからないが、姉妹の仲はとても良いことが分かる。
――桐子と桜もこんな感じだったな。
そんな思いにふけっていると、
「ジョウ君よ。君がどうして道で倒れていたかなんてことは聞かないよ。興味もない」
お姉さんはふいにそんなことを言った。
「これからだよ。これからどうする気だい。帰るところがあるなら、帰ることをオススメするよ」
真面目な顔で、本気で俺を心配して言っている。
「……ありません」
小さい声でそう答えた。
「そうかい。じゃあ、ここに住むといい」
お姉さんは実に軽くそんなことを言った。
「いいんですか。こんな、どこの誰ともわからない奴なのに……」
これから、どう宿をとっていこうか迷っていた俺はすぐに食いついた。
「いいとも。部屋は空いてるからね。柚がお世話になったみたいだし、お礼だと思い給え」
等価交換だと言うような言葉は正直ありがたかった。
「よろしくお願いします」と俺は頭を下げた。
「やめ給え。これからは、家族のようなものだ」
家族。その響きに怖さを感じた自分が嫌だった。俺は家族を捨ててきたのだ。
「そうだ。ご飯にしましょ。お腹減ったでしょ」
そんな思いを吹き飛ばすように、柚葉が言った。
「そうだね。ジョウ君も一緒に食べようじゃないか」
「え、ご飯まで……」
お姉さんの提案がありがたすぎて、すぐに乗っかることができなかった。
「家族のようなものと言っただろう。家族なら一緒にご飯を食べて当然じゃないかね」
ビシッと親指を立てて、お姉さんは言った。自然と涙が出てきた。この家、この二人は本当に温かい。新しい家族の温もりに俺は涙を流し続けた。二人はその涙を笑顔で迎えてくれた。
「そうだ。私は楓という。覚えてくれ給え」
楓さんはそう言うと、ウインクをして部屋から出ていった。
「さ、行きましょ」
柚葉についていくと、昨日入った部屋に着いた。洋風の木造建築は古いヨーロッパの家を想像させる。ところどころに置かれた小物が部屋の雰囲気を明るくしていた。
「この部屋は家族用になっているの」
柚葉が説明してくれる。
「2階もあってね。二人で暮らしていても、狭くないのよ」
その言葉にふいに聞いてしまった。
「そう。両親はもう死んじゃってね。それ以来、お姉ちゃんが私を育ててくれたの」
柚葉はたんたんと答えてくれた。
バカな質問を――と思いながらも、同じような境遇に親近感を感じていた。
洋風の朝食を終えると、楓さんが落ち着いた声で尋ねてきた。
「君は学生だったのかな。学校はどうする」
「どうするって言われても。戻ることはできません」
なぜ急に学校の話をするんだろうと思った。俺はすでに住所不定の人間だ。学校になんて行けるわけがない。
「私の知り合いに学校の理事長がいてね。転校生の一人ぐらい放り込めると思うのさ」
放り込めるとは凄い言い方だなと思ったが、興味を持った。
「私も行ってる学校だよ。楽しいところっていうのは保証するよ!」
柚葉が積極的に勧めてくる。
――いいかもしれない。
また、年相応の生活をすることができるかもしれない。このまま落ちていくと思っていた世界に光が差したような気がした。
「行きたいです」
「それは良かった。やっぱり若者は学校へ行くのが一番さ」
楓さんが親指を突き出しながら、笑った。
つられて笑顔になったが、必要なことがある。
「一つだけお願いがあります」
「千早丞です。今日からよろしくお願いします」
転校とはこういう感覚か。
2年A組のクラスで多少緊張しながら自己紹介をしていた。六十ほどの瞳が俺のことを興味深そうにじっと見ている。
しばらくすると、教室の中はざわめきだした。隣同士や前後の席でひそひそと話をしているようだ。六条は教卓を軽く叩いた
「はい、質問は個人的にしてちょうだい。千早君、君の席はあそこね」
六条先生は後ろの方の席を指した。
席につくと、さっそく隣の男子が話しかけてきた。
「ねえ、君、背が高いね。それに凄いイケメンだよ。うらやましいなぁ」
その男子は比較的背が低く、幼くて綺麗な顔をしている。一瞬女子かと思ったが、男子の制服を着ているからには男子だろう。
「あ、僕、加賀長親だよ」
まったく見た目と名前が一致しないなと思ったが、それは失礼か。
「よろしく加賀君」
すると、少し拗ねるように――
「長親でいいよ」
と長親は言った。
「もう仲良しかしら、加賀君、千早君」
あ──と思ったときには遅かった。
六条先生が笑顔で二人の目の前に立っていた。
「加賀くん、あとで職員室に来なさい」
「え。僕だけ!」
長親は涙目でこっちを見てくるが無視した。転校初日に職員室に呼ばれていては、悪い噂しか立たない。俺は静かに過ごしていくつもりなのだ。
「千早君は生徒指導室ね」
――なんてことだ。
横を見ると、長親が嬉しそうにしていた。
授業が終わって、六条先生に付いて、生徒指導室へ入った。
「ごめんなさいね」
そう先生は始めると、
「ここぐらいしか、ゆっくり話せなくてね。聞きたいこともあるし」
と、思いもよらぬことを言った。怒られはしないとわかっていたが、謝られるとは思わなかった。
「君はC組の千早さんと親戚なのよね。千早さんのお姉さんの勧めで入学したのよね」
──なんだ、そんなことか。
別に隠すことではないが、なぜ聞くのだろうと思った。
「理事長ったら、また勝手なことをして。」
「理事長?」
つい聞き返してしまった。
「そうよ。この学園の千早楓理事長。知らなかったのかしら。それはそれで、不思議な事ね」
──しまった。
「いや、学園の関係者だとは聞いてましたが、まさか理事長だとは」
なんとか誤魔化そうと本当のような嘘のようなことを言った。
「ふーん。そうなのね。まぁいいわ」
確実に怪しんでいるが、とりあえず、この場は切り抜けたらしい。
「前の学校では勉強はどのくらい進んでたのかしら。この学校は進学校なこともあって、少し難しいかもしれないから、わからない所があれば、いつでも相談しに来なさいね。」
優しい先生だ。顔が小さくて鼻筋がとおり、宝石のような美しい目にどこか惹き込まれそうになる。、長い髪の毛をアップにしているところは可愛らしい。少しキツそうに見えるがモテるだろうなと思った。
「さ、戻りましょう」
教室に戻ると、長親がダッシュで近づいてきた。
「丞! 大丈夫だったかい」
ああ──と答えて、席についた。何か騒がしいなと思ったら、クラスの女子が集まって、こっちを見ながら何か言っているようだ。クラスだけじゃない。廊下からも生徒がこっちを見ていた。
「ねえ! 千早君。柚葉ちゃんとは、どういう関係なの?」
一人の女子生徒が尋ねてきた。
またかと思いながら、
「親戚だよ」
と嘘の真実を伝えた。
楓さんにお願いしたのは名字のことであった。
七幸を名乗って学校に入っていては、どこかで噂を聞きつける人がいるかもしれない。せっかく得た機会を無駄にはしたくなかった。
その理由は言えなかったが、楓さんと柚葉に頼んで、名字を借りると同時に親戚ということにしてもらいたいと頼んだ。
「なるほどなるほど、そっちのほうがスムーズかもね」
怪しむ素振りもなく、楓さんは了解してくれた。
しかし、そのことが、これほど生徒の間で反響を呼ぶとは……。
「そういうことじゃなくて!」
女子生徒は少し興奮気味になってきた。顔が少し赤くなり、鼻の穴が広がっている。
「柚葉ちゃんの恋人なのかってこと。」
「恋人なんかじゃないよ。」
ここはきっぱりと言っておかなくては柚葉に迷惑がかかるし、これからの学校生活に支障が出る。
「じゃあ、昔からの許嫁かしら!」
ああ……生徒たちは俺というおもちゃを手に入れたのだ。そう簡単に手放すはずがない。クラスメイトたちは俺と柚葉のことで勝手に妄想を膨らませているのだろう。あちらこちらで嬌声が聞こえた。
「ジョー君!」
間が悪いことに柚葉がクラスに入ってきた。
「ジョー君。一緒のクラスになれなくて残念だね。一人でも大丈夫そう?」
今、大丈夫じゃなくなってきている途中である。俺は頭を抱えた。
「やっぱり、あの二人なにかあるわよ」
そんな声が聞こえてくる。教室中の全ての瞳が二人に注目しているように思えた。このままでは噂が広がるばかりである。
「柚葉、ちょっと外に出よう」
柚葉の手をとって外に出ると――
「きゃーっ」
黄色い歓声が飛んできた。
「どうしたのジョー君?」
屋上に行くと、柚葉はそしらぬ顔で聞いた。二人の距離感の問題について、説明した。
「そんなの私は気にならないよ。私はジョー君の親戚で家族なんだから」
柚葉は少しふくれたような顔で言った。その顔はとても愛らしくてドキッとした。
嬉しくて、「そうだな」としか言えなかった。柚葉が気にならないというなら、多少おもちゃにされようが構わない。
「あれ、すみれちゃんだ」
感慨深い心境になっていると、柚葉が屋上の端の方を見て言った。シャツにロングスカートの女性が立っていた。髪の毛は軽くウェーブがかかっており、とても清潔感がある。
柚葉の声を聞いて、そこにいた女性は振り向いた。
「あら、柚ちゃんじゃない。どうしたのこんなところで」
女性はそう言いながら近づいてきて、俺の方を見た。その目は俺を怪しんでいる風ではない。どちからというと興味を持っているようだった。
「柚ちゃんにも春がきたのね」
女性は嬉しそうな寂しそうな声で言うと、柚葉が慌てだした。
「そ、そんなんじゃないよ。今日転校してきた親戚のジョー君です」
柚葉が紹介してくれたので、俺は軽く会釈をした。
「まぁ! 転校生って柚ちゃんの親戚さんだったのね」
女性はかなり驚いたようだ。
「私は養護教諭の涼宮すみれです。よろしくねジョー君」
涼宮先生はたおやかに一礼したので、こちらも畏まって一礼を返した。
涼宮先生はこれからよろしくね。と、笑顔でもう一度言うと、屋上を後にした。
「すみれちゃん、凄く可愛いでしょ!」
柚葉が俺を試すように尋ねてきた。
たしかに美人というより可愛いという表現が当てはまる女性だった。何よりも、仕草や、まとっている雰囲気が穏やかで女性らしい。
「あー、エッチな顔してる」
心外なことだと思ったが、返事をせずに涼宮先生のことを考えていた。
――彼女は泣いていた。
教室では相変わらず視線が集まっていたが、なんとか午前の授業を乗り切った。
昼休みをどうすれば良いのかわからずにいると、長親が近寄ってきた。
「丞、昼ごはんはどうするの?」
そういえば、考えていなかった。何も持ってきていないことを長親に伝えた。
「じゃあ、食堂に行こうよ。僕はいっつも食堂なんだ」
ここ、私立神島学院は全校生徒五百人未満と小規模ながら、綺麗な校舎や広いグラウンド、活発な部活動、可愛い制服などで、大人気の学校らしい。そんな学校に転入できたのも、確かにコネのおかげだなと六条先生の気持ちが少しわかった。
食堂もホテルみたいなんだよと長親が自慢げに教えてくれた。食堂は前の学校にはなかったなと興味を持ち、了承した。
長親と一緒に歩いていると、一部の女子が頬を赤らめて熱い視線を向けてくる。
――勘弁して欲しい。
「まったく職員室に呼ばれるなんて、災難だったよ」
そういえば、長親は六条先生に呼び出しをくらっていたなと思い出した。
「そうだ。職員室の帰り、保健室の前を通ったら、後藤先生が出てきてね――」
後藤先生というのは男性の数学教諭らしく、若くて、女子に人気があると長親が教えてくれた。
――保健室か。長親の話では何があったかわからないが、涼宮先生と関係あるのだろうか。
豪華だが戦場でもあった食堂から帰還すると、放送が鳴った。
「2年A組の千早君。至急、理事長室に出頭してください」
出頭とはなんて言い草だ。楓さんにもおもちゃにされているのかと辟易したが、理事長に呼ばれては行くしか無い。今度は何をしたのさと聞く長親に理事長室の場所を聞いて、向かった。
数知れない視線を浴びながら、理事長室に着き、ノックをした。
「入り給え」
立派な扉を開けて、中に入ると、そこは綺麗な応接室のようだった。
「やあ、ジョウ君。転校初日はどうだい。なんて、つまらないことは聞かないよ」
いつもの調子の楓さんがソファに寝転がっていた。
「大事なのは、これからのことさ。やっていけそうかい」
起き上がりながら、そう言った楓さんに俺は頷いた。
「なら良かった。ここは美人の先生も多いしね。ジョウ君にはとびきり美人の六条先生をつけておいたよ。感謝し給え」
そんなところに権力を使っていたのかと呆れると同時に六条先生の困った顔が浮かんできた。
「ひとつお願いがあるのだけれど」
楓さんは真面目な顔をして言った。
「加賀くんがミス・ミスターコンテストに出場するように説得してくれないかい」
……。
呆気にとられた。俺は開いた口が塞がらない。思考も停止してしまった。
「今度、文化祭があるのだけれど、そこに女装コンテストがあるのだよ」
だんだん楓さんは興奮してきたようだ。
「加賀くんが出場したら良いと思わないか!」
まったくもって、桐子とこの人は捉えきれない。変人と付き合うのは一人でも大変だったのだが……。
なぜ自分で説得しないのかと聞いた。
「去年、お願いしたんだけれども、逃げられてしまってね」
ほう、長親やるじゃないか──と当時の苦労が目に見えるようである。
そこでだと、楓さんは身を乗り出してきた。軽い香水の匂いがした。
「友達からのお願いなら、出場してくれるんじゃないかと思ってるんだ」
長親と友達になった事を知っているとは情報が早い。
たしかに長親は友情に熱い雰囲気を持っている。
しかし、俺に何の得があるのか。率直に聞いてみた。
「得なんてないよ。ただ、ジョウ君には部屋を貸していたことを思い出してね」
――ひどい。これはお願いじゃない何かだ。
反論できなくなったので、努力しますとだけ告げて、理事長室を後にした。
保健室の前を通ると、男性の声が室内から聞こえてきた。それはとても優しげで楽しそうだった。
「すみれさん。結婚したら、どんな部屋に住もうかな」
――涼宮先生が結婚。
突然の知らせにビックリした。涼宮先生の声は小さくて聞こえない。
先ほど泣いていた涼宮先生は寂しそうに見えた。結婚を控えて何か思うところがあるのだろうか。
もやもやしながら、教室に戻ると長親が心配そうな顔で犬のように近づいてきた。――女子から歓声があがる。
「丞、何を言われたの。」
お前のことだ。とは言えず、文化祭について聞かれたんだと伝えた。
「文化祭のこと? 変なこと聞くんだね」
さすがに長親も不思議がっている。だが、それほど気にしていいないのか、ソレ以上追求してこなかった。
長親は何か思い出したかのように目を大きくした。
「そういえば、文化祭にはイケメンコンテストがあるんだよ!」
その言葉に教室の中が一瞬静かになった。そして、クラスメイトたちは一斉に騒ぎ出した。長親も興奮気味だ。嫌な予感がする。
「丞、出なよ! 絶対一位になれるよ! 僕が保証する!」
男に保証されたくないと思ったが、ここはチャンスである。
「そうなのか。そういえば、ミス・ミスターコンテストってのがあるって聞いたな」
長親の顔がみるみる青くなった。
「長親がそれに出るなら、俺もイケメンコンテストに出るよ」
もう長親の顔は真っ青になっている。教室は俺たちの話を聞いたクラスメイトたちによりお祭り騒ぎである。
「俺は転校して間もないだろ? だからコンテストに出るには勇気がいるんだけど、せっかくできた『友達』と一緒に文化祭を楽しみたいんだよな」
こんな取引を受けるはずがないと思ったが、長親は必死に考えている。
「いいよ……。出るよ!」
まずい。非常にまずい。
「無理しなくていいんだぞ、長親」
──断れ長親。
「いや、丞はコンテストに出るべきだ。友達が文化祭を楽しめるなら僕は何でもするよ」
女子たちが卒倒しそうになっていた。
厄介なことになった。転校初日からこれでは、先が思いやられる。しかし、この新しい生活に少し充実感を持ってきていた。自分を受け入れてくれる人たちがいる。それが嬉しかった。
このままでいられれば――。




