十. ~鬼の慟哭~
俺が突進するのと銃声が鳴るのは同時だった。俺の手は丘山さんに届かなかった。しかし、銃弾も俺には届かなかった。銃弾が俺に届く瞬間、何かが俺を押し倒した。
「丞……大丈夫?」
俺に覆いかぶさっている六条先生からか細い声が聞こえた。先生は黒い羽を目一杯広げて俺を守っていた。
「先生……」
「大丈夫そうね……よかった」
そう言って先生は目を閉じた。
「先生!」
力が抜けていく六条先生を抱きかかえた。温かいものが俺の体を濡らしていく。
――血……先生の血。
「なんで……なんでこんなことに」
丘山さんの顔を見た。俺は情けない顔をしていたことだろう。
「どうしてか。それは君とこの女が異形だからだ。それ以上でも以下でもない」
それを聞いた俺の心は冷え切った。そして意識し続けた。
――コントロール、コントロールしろ。
「わかりました。投降します。そのかわり六条先生の命も保証してください」
そう言うと、周囲の張り詰めた空気が和らいだのが感じられた。
「わかった、約束しよう。ではその女を渡し――」
丘山さんがそう言って部隊の一人が近づいてきた瞬間、その銃を奪い闇雲に撃ちまくった。銃など撃ったことはないが引き金を引けば弾が出るぐらいのことはわかる。それが当たろうがどうだろうが関係なかった。時間さえ稼げればよかったのである。案の定、思わぬ俺の行動に警察の部隊は少し怯んだ。その隙きに六条先生を抱えて、屋上から飛び降りた。「追え!」という丘山さんの叫び声を背中で聞きながら、俺は学校を後にした。
鬼となっていた俺はビルからビルへと飛び渡り、なんとか誰にも見られることなく港の倉庫街にたどり着いた。周囲を警戒していると、俺の腕を握る力を感じた。
「先生!」
六条先生がうっすらと目を開いている。
「ふふ……。私なんて置いていけば良かったのに、本当にお人好しね。これでは、柚葉と涼宮先生が惚れても仕方ないわ」
冗談を言う六条先生を安心させるように微笑みかけた。
「そうです。俺はお人好しなんですよ。だから、もし先生が犯人だったとしても殺すことなんてきっとできなかった」
屋上であれだけ湧き上がっていた殺意がなくなっていくのを感じていた。丘山さんたちから助けてもらったからだろうか。いや、ただ単純に傷つく六条先生を見ていられなかったのである。
「あれだけ殴りかかっておいてよく言うわ……ごほっ!ごほっ!」
六条先生の傷はなかなか治らない。
「先生、喋っちゃだめです。なんとか止血しないと……」
焦っている俺の頭を先生は優しくなでた。
「大丈夫。私は吸血鬼よ。簡単に死んだりはしないわ。ただ、このままじゃ、治るのも時間がかかりそう。申し訳ないんだけれど、あなたの血をくれないかしら」
俺は先生の言葉に笑ってしまった。
「何を笑っているのかしら」
先生はかなり不服そうな顔で俺を睨んだ。
「だって先生のセリフ、まるで文化祭でやった劇みたいでしたから。はははっ」
文化祭の頃は本当に楽しかった。柚葉がいて、長親がいて、涼宮先生がいて、楓さんがいて、そして六条先生がいた。それが今では桐子を失い、桜も生死の境目を彷徨っている。そして、目の前では六条先生が苦しんでいた。
――せめて、俺ができることをしなければ。
そう思った俺は右手を先生の口元に差し出した。
しばらく経つと先生は話ができるほどに回復した。まだ体の傷は癒えないようで起き上がることができない。
「あなたの血、なかなか美味しかったわ。さすがは鬼の一族なだけあるわね。それに以前飲ませた私の血が馴染んでいたみたい。あなたの方は大丈夫かしら」
血が美味しかったなどと言われるのは初めての体験だったが、六条先生が元気になったことを素直に喜んだ。
「良かったです。ここは港の倉庫ですけど、しばらくは見つかることはないでしょう。ただ、これからどうしますか」
不安そうに尋ねると、六条先生は顎に手を当てた。俺には何が起こっているのかわからなくて、今後の見通しがまったくたたなかった。
「伝えておかなければいけないことがあるわ」
六条先生が言っていることは警察が乗り込んでくる前に言おうとしていたことであろう。今度は冷静に聞こうと思った。全部聞いてからでも判断するのは遅くない。
「あなたはこの街にいる異形は私とあなたの二人だけだと思っているようだけれど、少なくとも、もうひとりいるわ」
猟奇殺人の犯人が六条先生でないとしたら、たしかに異形はもうひとりいることになる。先生はそのことを言っているのだろうか。
「いえ、私はひとりじゃなくて、二人はいると思っているわ。一人はあなたも知っているはずよ」
そう言われても俺にはまるで覚えがない。困惑している俺を先生は困ったように見た。
「忘れたのかしら、私は昔、難病の少女を助けたわ。眷属にすることでね」
――そうか。吸血鬼の先生が助けた少女は異形の存在となっている。その少女がまだこの街にいるというのか。
「その少女が犯人なんでしょうか」
「計画を立てたのはそうでしょうね。おそらく実行犯は別にいるわ。だから異形は他に二人いると推測したの」
なるほど、実行犯がその少女だとすると、六条先生はとっくに見つけ出しているはずである。計画犯と実行犯がいることで、先生は足取りをつかめなかったのかもしれない。
「どうして猟奇殺人なんて起こしているんでしょうか」
「猟奇殺人自体は食事のようなものかもしれないわ。だけど、桐子さんの事件はそうじゃない。確実にあなたと私を標的にしているわ」
猟奇殺人が食事であるという考え方は桐子もしていたことである。真犯人はそれを利用して、桐子の事件を起こしたのだろうか。
「桐ねぇが猟奇殺人を調べていたことで俺が標的になるのはわかります。だけど、どうして先生まで巻き込まれる必要があるんですか」
俺の言葉に先生は口元を歪めた。
「巻き込まれるか……元々、標的は私の方だったかもしれないわ。桜さんが襲撃された場所に呼び出されたことからして、あなたに私を始末させようとしたんでしょうね」
「どうして、そんな回りくどいことを……」
先生を狙っているなら桐子を殺したり、桜を襲ったりする必要はないはずである。
「吸血鬼の眷属はね、その主には逆らえないの。直接、手を下すことはできない。だから、あなたを利用することにしたのよ。私が眷属にしたことを恨んでいるのでしょう。それはそうよね、突然人から化物にされたんですもの」
そのために、桐子たちは犠牲になったというのか。少女に対する憎しみが募っていく。
「先生はその……助けた少女のことを今でも知っているんですか」
先生は少し悲しそうな顔をした。
「ええ、あなたもよく知っているわ」
「え……?」
一呼吸置いて先生は少女の名を告げた。
「……楓よ」
凄く時間が経ったような気がしたが、もしかしたら一瞬だったかもしれない。俺はそれほど先生の言葉を信じることができなかった。それでも良いというふうに先生は続けた。
「楓を助けてから、私達は親友になったわ。いえ、なったつもりだったのは私だけかもしれない。でも、あれ以来二人は協力して、うまく社会に溶け込んだ」
溶け込んだという表現にそれまでの二人の苦労が伺えた。今では二人とも人としての生活を確立させている。
「楓は昔、弱い子だったわ。いつも私の後ろに隠れていた。今では考えられないでしょう?」
確かに考えられない。楓さんといえば、我が道を行く、傍若無人、そんな言葉が似合う印象である。出会ってから弱いところなど一度も見たことがない。
「彼女が変わったのは両親が亡くなってからよ。まるで別人になったと言ってもいいわ。それでも二人の繋がりは切れることはなかった。たった一人の同族だったからかしらね」
――両親が亡くなったときか。文化祭で柚葉とキスをしたときに流れ込んできた映像を思い出す。二つ並んだ棺桶、そして手を優しく握ってくれた人。あれは柚葉の両親が亡くなったときの記憶であろう。なぜなら手を握ってくれた人は楓さんだった。そして、忘れられないのはその顔が笑顔で歪んでいたことだった。
「楓さんは先生に助けられたんじゃないですか。恨むなんてそんな……二人はあんなに仲が良さそうだったのに」
俺はふざける楓さんに困っている六条先生の姿を思い浮かべた。
「そうね……楓がここまでする意味はなにかしら? 私が眷属にしたこと自体を恨んでいる? いいえ、それならもっと早く泣き言を言っていてもおかしくはないわ。ご両親が亡くなったときに何かが壊れてしまったのかもし――ごほっ!ごほっ!」
「先生! 大丈夫ですか!」
「ふふふ、せっかく血をもらったのにここまでみたいね」
――そんな。せっかく良くなったと思っていたのに。やっと先生のことを信じられると思ったのに。
「そんな顔をしないで。あなたのせいじゃないわ。いい、丞よく聞いて。あなたは鬼であることを嫌っているかもしれないけれど、あなたは鬼と人の心両方を持つ優しい子よ。それはとても素敵なこと。もし、自らを失いそうになったときは大切な人をその心にとめておきなさい」
先生の目がだんだんと閉じていく。
「嫌だ、先生! 起きてくれよ! 血ならいくらでも飲んでいいからさ! ほらっ先生!」
俺は腕を先生に差し出したが、先生にはもう見えていないようである。
「色んな人に会ってきたけど、あなたが鬼だなんてね……鬼と人どちらが美しい心を持っているのかしら……」
先生の体が急激に軽くなり光だした。そしてぱっと弾けたと思ったら抱き寄せた腕には何も残っていなかった。
――先生が消えてしまった。俺は最も尊敬する人を失った。
六条先生が消えたことに呆然としていたが、一人になってしまったことを思うと涙が止まらなかった。ひらすら泣き明かしてから俺は倉庫を出た。
今、俺は警察と楓さん両方に狙われている。どうしたらいいのか迷っていると、電話がかかってきた。
――柚葉。
「もしもし」
「もしもし! ジョー君、大丈夫なの?」
柚葉のところにも警察が行ったのだろうか。かなり慌てているようだ。
「ああ、大丈夫だ」
俺は涙を拭いて、できるだけ気丈な声で答えた。柚葉たちにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
「長親君からジョー君が急に出ていったって聞いてたんだけど、さっき丘山さんからジョー君がどこにいるか知らないかって連絡があってね。何かあったんじゃないかってみんな心配していたの」
どうやら、俺や六条先生のことは柚葉たちには知られていないようだ。特殊部隊なんてもの自体が極秘事項である。異形がいると言っても普通の人は信じないだろう。
「楓さんはそこにいるのか」
「お姉ちゃん? お姉ちゃんなら今いないけど、桜さんが神島病院に入院してるって聞いて、出かけていったよ。ジョー君も病院にいるんじゃないの?」
楓さんは桜を殺しに向かったのか? いや、あそこには警察が待機している。簡単に手を出すことはできないだろう。俺を釣るための行動かもしれない。どうするべきか。
「長親に変わってくれないか」
俺と長親はいつかのようにこたつに向かい合って座り、コーヒーを飲んでいた。
ここは長親のアパートの部屋である。長親に電話を変わってもらった俺は、長親にアパートまで来るように頼んだ。これは男同士の極秘事項だと伝えたので、どうやら誰にも言わずに出てきたらしい。
「丞、どうしたのさ。急に出かけていったと思ったら、今度は僕をここに呼び出したりして……」
長親はなんだか今日は騒がしい日だよとそわそわしていた。
「長親、俺たち親友だよな」
長親が即座に頷いたことが、とても嬉しかった。長親のことは信じることができると思った。
「信じてもらえるかわからないが、今相談できるのはお前だけなんだ」
そう言って、長親に今日起こったことの経緯を話した。
「六条先生が?」
六条先生が死んで消えてしまったということを伝えると、長親は涙を流した。
「俺の言うことを信じるのか」
長親は涙を拭いて、はっきりと頷いた。
「丞は前に僕の言うことを無条件で信じてくれたんだ。今度は僕が信じる番でしょ。だって僕たち友達じゃないか」
長親はそう言って微笑んだ。
「で、僕は何をしたらいいんだい」
「そうだな、まずは……」
俺は長親が帰ってからしばらくして、柚葉たちの家に戻った。どうやら警察はいないらしい。部屋に入ると、誰もいないようだった。どうやら長親がうまくやってくれているようだ。俺は居間のソファに腰掛けてそのときを待った。
玄関が開く音が聞こえ、居間に楓さんが入ってきた。
「おやっ、ジョウ君じゃないか」
俺がいることに少なからず驚いたようだ。この人を驚かせることができるとは珍しい体験をしたものだ。楓さんはその驚きもすでに忘れてしまったかのように向かいのソファにゴロリと横になった。しばらくの沈黙を破ったのは楓さんのほうだった。
「ミズキは逝ったようだね」
楓さんが六条先生のことを名前で呼ぶのを初めて聞いた。眷属であると、主の死がわかるのだろうか、楓さんは自分が陥れた相手を懐かしむような顔をした。
「六条先生は消えてしまいました。楓さんは満足ですか」
そう言っても、楓さんの表情に変化はない。どこか遠くを見ているようで感情を読み取ることはできなかった。
「満足なものか。私は親友を失ってしまった。まったくもって残念で仕方がないよ」
言葉はまったく残念そうではないが、楓さんは本気で悔いているように思えた。
「じゃあ、どうしてこんなことを!」
叫ぶ俺に向かって、楓さんはしかめ面を見せた。
「君はどうやら、私がミズキを殺したがっていると思っているようだけどそれは違う」
「でも、実際――」
「私が殺したいのはね、ジョウ君、君だよ」
冷たいナイフを首筋に当てられたような気がした。
「どうして……」
困惑する俺をじっと見つめながら、俺の問いに答えだした。
「そうだね。君の両親の話をしようか」
楓さんは話の内容を思い出そうとしたのかしばらくの間目をつむった。
「君の両親は結婚を反対されて、神島に来た。それは知っているかな?」
俺はこくりと頷いた。父の日記に書いていることが事実ならそのとおりである。
「二人は私の父の家、つまりここに住んでいたらしいのだがね、神島にきてすぐに子供ができていることがわかった」
――なんだって。
「それはもちろん君のことではない。君が生まれるよりも七年前の話だ」
楓さんはすらすらと話を進めていくが、俺は理解が追いつかなかった。
「君の母親は体が弱かったが、それでもなんとかその子を産んだよ。だが、その子は難病にかかっていた」
――難病。その単語に嫌な予感がした。
「それでも、しばらくは親子仲良く暮らしたよ。ところがだ、その子が七歳になる頃に両親は姿を消してしまったのだよ。その子は伯父の養子になったが、両親のことを嘆いて体と心の両方を病んでいった。病院のベッドで死ぬほど苦しんでいたある日、窓辺に座る少女に出会った。君も知ってのとおり、その少女がミズキだ。そして、その悲劇の子供の名前は楓という。つまり私と君は実の姉弟ということだよ」
柚葉と俺がいとこだとわかったときも驚いたが、今回はその比ではなかった。桐子は両親が神島にいたのは七、八年だと言っていたが、その間に子供がいたとまでは知らなかったのだろうか。俺の驚きにも興味がないのか楓さんは淡々と話を続けた。
「元気になった私は今の両親と仲良く暮らしたさ。本当の両親のことなど忘れるぐらい幸せだったとも。だが、ある日あの男は戻ってきた。あの男は狂ったように君の故郷での出来事を話したよ。そうして私は実の両親に君という子供がいることを知った。そして、母親が君を愛し死んでいったことも……私は正気ではいられなくなってね、今の幸せが偽物じゃないかと思うようになったんだよ」
――なるほど。
「だから柚葉の両親を殺したんですか」
楓さんは初めて表情を変えた。
「なぜ、それが分かったのかな。誰にも言っていないことだったのだけれど」
できれば否定してほしかった。俺の予想なんて大外れだといつもの大げさな言い回しで吹っ飛ばしてほしかった。
「柚葉の記憶を見たんです。ご両親の葬式であなたの顔は愉悦に歪んでいた」
「くくく、まさにそのとおりだ。五年ほど経ったころだろうか、君の父親を殺したことが両親にバレてしまってね。どうも、行方不明になった弟について、柚葉の父親は調べていたらしい。こりゃ困ったってことで車のブレーキに細工をしたのだよ。君は心を操る鬼だったね。私にもその力が欲しかったものだよ。そうすれば、こんな面倒なことをせずに済んだのにね」
――ガシャン!
部屋の外で大きな物音がした。俺は急いで確認すると、そこには真っ青になった柚葉がいた。なぜだ。柚葉は長親に頼んで、病院へ行かせたはずなのに。
「お姉ちゃん……パパとママは事故で死んだんじゃなかったの?」
柚葉は楓さんに詰め寄ったが、楓さんは表情を変えないどころか、微笑を浮かべている。
「柚、君にだけは私を責める権利がある。そう、私が君の両親を殺した」
柚葉は体を震わせて、むせび泣いた。
「どうして……あんなに仲良かったじゃない」
楓さんは立ち上がり、柚葉の肩に手を置こうとしたが、柚葉はそれを払いのけた。
「触らないで! パパとママを殺した手で触らないでよ!」
柚葉の激昂に楓さんはやれやれと手をあげた。
「なぜ殺してしまったのかは私にもわからないよ。もう私は普通の人ではいられなかった。そう、それこそ鬼のようになってしまったのかもしれないね」
楓さんはまたソファに戻って、目を閉じた。柚葉の泣き声だけが聞こえる。できれば耳を塞いでいたかった。だが、まだまだ楓さんには聞くことがある。
「俺の命もずっと狙っていたんですか」
「いや、この家に君をかくまったのは君が異形だという話を聞いたからさ。私には鼻が効く眷属がいてね」
――爪崎のことか。やはり楓さんと爪崎は繋がっていた。爪崎が実行犯である可能性が高い。
「君が例の弟だとわかったのは桐子さんが持ってきた父の写真を見たときさ。あれは衝撃的だった。あのとき以来、私は君の幸せを壊すことだけを考えた」
楓さんは楽しそうに表情をころころと変えだした。
「それで桐ねぇを殺したんですね」
「それだけではないがね。桐子さんは真実に近づきつつあった。あまりに優秀であまりに危険な存在となったのでね、君への警告の意味も含めて殺したのだよ。そのときミズキに罪をなすりつけようと思いついた」
桐子の本当の敵が目の前にいる。俺は体が熱くなっていくのを感じた。
「そして警察に俺を殺させようとした」
ビンゴだと言って、楓さんは指を鳴らした。
「ただ君が鬼だと主張したところでどうにもならない。君が鬼という存在だということを証明する必要があった。だからミズキと争ってもらったんだよ。その場を警察が見れば、さすがに言い逃れはできないだろう。しかし、ミズキがこれほど生徒思いだったことは計算外だったがね」
そう言うと楓さんはゆっくりと立ち上がった。
「私は君の幸せを壊すことに快楽すら覚えているのだよ。だから桜という子も殺してあげようと思った。どうやら失敗したようだけれどね。そして、あと君の幸せといえば……」
楓さんがドアを素早く開けるとそこには涼宮先生と長親の姿があった。
「あとはこの二人と……そうだね、悲しいけれど柚葉を殺してあげると君は壊れるだろうか」
――やめろ。やめてくれ。
俺は楓さんに飛びかかって首を締めた。楓さんは苦しそうな顔もしなかった。ただ何もかも諦めたような儚げな目で俺を見つめていた。ああ、俺は姉を殺してしまうのだなと心のどこかで囁く声が聞こえる。
「やめて! ジョー君、お願い。お姉ちゃんを殺さないで……」
俺の手に柚葉はすがりついた。俺はそれでも力を緩めなかった。
「お願い……お姉ちゃんが殺されるのも、ジョー君が人殺しになることも見たくないの」
――自分を見失いそうなときには大切な人を心にとめておきなさい
俺は楓さんの首から手を離した。楓さんは咳をしながらその場に崩れ落ちた。
「ふふふ、殺してもらう作戦も失敗だね。まったく私は何をやってもだめみたいだ」
自嘲している楓さんを見ることができなかった。ただ一言だけ伝えたかった。
「俺だって、実の姉を殺したくなんてない……」
その言葉を聞いた楓さんは爆笑した。
「いやー笑った、笑った。殺されそうになった相手をまだ姉扱いしてくれるとはね。そうかい、姉か。私にもその人生があったのかもしれないね。かわいい弟と妹を守るっていうのも姉冥利につきるってもんじゃないか」
そう言うと同時に楓さんは俺と柚葉を押し倒した。突然どうしたのかと驚いていると、窓を割って銃撃音が聞こえた。
「先生! 長親! 逃げろ! 逃げるんだ!」
銃撃は俺たちの方に集中しているようだ。涼宮先生と長親が無事に逃げきることを信じて、精一杯声を張り上げた。しばらく経つと銃撃が終わった。手や足を掠めただけで済んだようだ。
「ジョウ君……無事かい?」
楓さんの消え入るような声が聞こえた。
「無事です! 楓さんは?」
楓さんは微笑んだ。その口元からは血が流れている。
「私はどうやらだめなようだ。まったく最後まで格好のつかない姉ですまないね」
抱き起こそうとした手を楓さんは止めた。
「私のことは諦めてくれ給え。そのかわり、そのかわりに柚葉を……」
――そうだ柚葉!
柚葉は倒れたまま動かない。床に血が広がっていく。呼吸を確かめるとまだ息はしているようだ。
なんとか止血をしようとしたとき背中から丘山さんの声が聞こえた。
「丞君、投降しなさい。もう君は逃げられない」
俺は無視して、柚葉の止血を急いだ。そんな俺の足元に銃弾が弾けとんだ。
「その子も助けてあげようじゃないか。だから投降しなさ――」
警告を続けようとした丘山さんの足を楓さんが掴んだ。丘山さんはそれを何気なく見ると、楓さんの額に銃弾を打ち込んだ。
楓さんの顔がゆっくりと倒れる。その目にはもう人をからかうような光はない。楓さんの体が光に包まれる。
――いかないでくれ。
俺は楓さんを必死で捕まえようとした。しかし、楓さんの体は六条先生と同じように弾けてきらきらと舞い上がった。
――楓……ねえさん。
「うああああああああああっ!」
俺は哭いた。体が膨張していくのがわかる。それに気づいた丘山さんは銃口を俺に向けて叫んだ。
「う、撃て! 撃て!」
無数の銃弾が俺の体に浴びせられる。しかし、すべてを弾き返した。俺の体はもう完全に鬼と化しているのだろう。丘山さんの青ざめた顔が見えた。
――こいつだ。いや、こいつらが楓さんを殺した。
俺は信じられないスピードで走り、部隊を襲った。面白いように人が吹っ飛び、手足、首が千切れていく。もはや原型をとどめないものもあった。阿鼻叫喚の中、俺は冷静だった。それでも俺は自分を止めようとは思わなかった。
しばらく暴れまわると銃声一発しなくなった。たった一人、尻もちをついて俺を見上げている丘山さんがいた。
「ば、ばけものがっ」
そう言って、丘山さんは拳銃を取り出した。俺は瞬時にその首を吹き飛ばした。首の切断面から勢い良く血が吹き出し、丘山さんの体ががゆっくりと倒れていく様を俺は眺めていた。
「ジョー君……」
――柚葉。
柚葉の声に俺は駆け寄ったが途中で足が動かなくなった。柚葉は鬼となった俺を見て、何と言うだろうか。かつて桜に言われた言葉を思い出す。柚葉の顔を見ることができない。柚葉はもう一度俺に呼びかけた。
「ジョー君。こっちに来て……」
言われるまま俺は柚葉の傍らに座った。
「お姉ちゃんは?」
柚葉は顔を左右に動かした後、俺の顔を見た。
「消えてしまった。助けられなかったよ……」
「そっか……それでジョー君そんなに悲しい顔をしているんだね」
俺の顔はいつもの顔とは違うはずだ。
「俺のことが怖くないのか?」
そう言うと柚葉は微笑んだ。
「怖くないよ。ジョー君のことはずっと前からわかってたもの。文化祭の劇でジョー君とキスをしたときにね、色んな記憶が見えたの。楽しい記憶、悲しい記憶、本当に色々。これはジョー君の記憶と気持ちだってすぐにわかったよ。あんなに優しい気持ちはきっとジョー君のものだって。鬼の記憶もそのときに見ちゃったの。ごめんね。でも全然怖くなかった。だけど悲しかったなあ……」
「なんで……?」
「ジョー君が苦しがってるのに私は何にもできないんだなって思うと、すごく悲しかったし悔しかった」
「柚葉は俺に夢をくれたじゃないか。ほら、あのハンカチを覚えているか? あれを巻いてくれたとき、俺はまだ生きていていいんだって思ったんだよ」
柚葉はあの日を思い出すかのように空中を見ていた。
「そっか、私はジョー君の役に立てたんだね。嬉しいなあ」
柚葉の目から生気が失われていくようだった。
「ねえ、ジョー君知ってた? 私ね、ジョー君のことが大好きなの」
「いつから?」
「あの日助けてもらったときからずっと。一目惚れってことになるのかな、なんだか恥ずかしい」
「こんな俺でも好きだって言ってくれるのか」
「いつもどおりの優しいジョー君だよ。だから大好き……」
そう言って柚葉は目を閉じた。
「柚葉! おい! 起きてくれ柚葉!」
体を揺さぶっても柚葉は起きる気配がなかった。まだ息はしている。何とかしなくては。
そのとき、拍手の音が聞こえた。




