第二部:酷の花火、迷いし螢
カラカラカラ。カラカラカラと音を立てながら兄妹が並んで歩く。妹の方は左隣の点滴を押していた。彼女はいつもこの点滴と共に生きてきた。
「大丈夫か?」
「心配しすぎだって」
小柄な妹を気遣う兄、花守貞晴に若葉は苦笑を返す。貞晴はこの年になってもまだ妹離れができていない。迷惑をかけているのは確かなのであまり若葉も強く言えないが、だからと言ってほぼ毎日若葉のいるこの病院まで顔を出すのは流石としか言いようがなかった。特に一昨日。額に玉の汗をかきながら面会時間ギリギリにやってきた時は思わず若葉は笑ってしまった。貞晴曰く、高校の受験生を対象とした勉強会に参加し帰ろうとしたところ電車が事故で止まっており帰るに帰られなかったという。特にこんな鳥越村なんていう田舎の最寄駅までは迂回ルートもほぼなく、最寄駅からもバスで30分ほど揺られなければならなかったり、そもそもバスが30分に一本しか無かったりと散々だ。
今日も今日とて目の前でバスが過ぎて行ったと貞晴はぼやいていた。
「お兄ちゃん、一人暮らしすればいいのに。学校の近くに寮があるって言ってたじゃん?」
「えっ?いや、そんなところすんだらそれこそ若葉のお見舞いが大変だろうが」
「いや、そのお見舞いを別にする必要性がそんなに」
「何言ってんだよ」
首を振って若葉の言葉を遮る。貞晴にとっては通学の利便性より妹のお見舞いの方が大切だということらしい。それは若葉にとって少し嬉しいけど少し困ることでもある。
若葉が何ともいえぬ複雑な顔をしていると後ろから声をかけられる。
「あら?今からお散歩?」
「あっ。中野お姉さん」
二人は振り返って若葉がその人物の名を告げ、貞晴は小さく一礼した。
中野里美はこれから病室を回るのだろうか片手にカルテを持っている。
「こんにちは。貞晴君も毎日毎日ご苦労様」
「いえ。好きでやってる事ですし。中野さんもお疲れ様です」
「私は今から仕事なんだけどね。外で散歩もいいけど暑いから」
「分かってます。外に出たらすぐに麦わら帽子かぶらせますよ」
「あんまりその麦わら帽子好きじゃないんだよなー。子供っぽいし」
「わがまま言うな。お前の頭に会う帽子がすくないんだから仕方ないだろ?」
「わかってるー。言ってみただけ。でも、おしゃれだってしたいもん。中野お姉さんもそう思いません?」
「そうねー。私が若葉ちゃんの頃―――高校生頃だとルーズソックスだとかが流行ったかなー。後はビビビッとかオヤジギャルって言葉も流行ったかなー」
「お姉さん、古い。古いです」
「今そんなこと言ったらKY判定うけるのかな」
「KYも十二分に古いですよ」
「えっ?嘘っ!KYなんて最近じゃない!」
流行の移り変わりにショックを受ける中野、33歳。KYという言葉が流行ったのは……もう8年ぐらい前でなかろうか。大人にとっては最近の事かもしれないがまだ幼い二人にとってみればかなり昔の出来事に思う。
「えっ?じゃあ他……。イクメンとはわかるよね?」
「あ~。少し前から言葉としてはありますよね。お兄ちゃんはイクメンになると思いますけど」
「オレ?いや、あっ……う~ん。どうだろう」
貞晴は小さく首をかしげる。若葉としては十分すぎるほど世話をしてるからイクメンになれると推測しているが。むしろかまいすぎて嫌がられるタイプじゃないか、なんてどうでもいい心配をしてしまうほどに。
「というか、お仕事大丈夫なんですか?」
「えっ?あぁ……。いかなきゃだね。じゃあ、気を付けて。あまり長く散歩しないようにね」
それだけ告げると中野はカルテを持ち直して去っていく。ただジェネレーションギャップまでは去っていないようでまだブツブツと何かを言っているのがうかがえる。
「あの人も変わんねえな」
「あたしが病院に通うようになって唯一変わったのは早く結婚しないとが口癖になったことかな」
「……言ってやるな」
貞晴はそれ以上深く突っ込むことをせずにゆっくりと頭を振る。若葉も少し悪いことを言ってしまったという自覚があるので黙って何も返さなかった。
そのまま病院のメイン入り口となっている、かろうじて自動であるそのドアを潜り抜けると見慣れた光景になる。
土の香り、色とりどりの花。少しだけ近代的な金属の臭いがする鉄骨。それらまで若葉の知る世界そのものだった。箱入り娘なんていえば聞こえがいいかもしれないが実際のところそんなに綺麗なものではない。
「飽きたなぁ。ここも」
「そうかもな……。まっ、治ればいくらでも連れてってやるからさっさと治してだな」
「……」
その言葉にすぐには答えられず喉がつかえる。でも、そんなことは貞晴も分かっていることだ。ここで無理だなんていってみせて何になるというのか。
「そうだね。ん~そうだな。スカイツリーとか見てみたいかな」
「東京かー。ここからじゃ少し遠いな。となると飯食って体力つける必要性があるな」
「えへへ。そうだね」
少し笑って同意する。まずもってこのちんまい体ではせっかくスカイツリーに登ったとしても人並に飲まれてなにも見れないかもしれない。それだと意味がない。
その後も他にはどこに行きたいのかとか、だとしたらこういうルートで行くのがいいとか夜行バスはどうなのかとか新幹線はどうとか、リニアモーターカーはできているかもしれないからそれを乗ろうかとかどうでもいい話をする。
「じゃ、そろそろ戻ろうか」
若葉の額にもうっすらと汗が出てきていることを見て声をかける。これ以上歩くのは確かに辛さもあ有ったのであたしは黙って肯定する。
こうして若葉にとっての遠出はわずか10分で終了をした。その時村内に響くアナウンスが今年も『螢火祭り』を行うことをアナウンスし、忌々しげに舌打ちを貞晴がしていた。
人間には重要な臓器とそうでもない臓器が存在する。例えば盲腸なんかは必要なくても生きていけるし、極論を言えば腕だって一本なかろうが二本無かろうが、幸せに暮らす人は存在ることからヒトという種が生きるにあたってはそこまで重要ではないかもしれない。ただしそうでない臓器の欠損はそうとはいかない。
―――心室中隔欠損。Kirklin-I型。
若葉に下された病名だ。この病気が下されたとき彼女は物心どころか物もうまく言えない赤子の頃の話。
この病がどのようなものなのかと尋ねられた時若葉は決まってこう答える。
『成人している人でこの病気を患い続けている人は少ないよ』
その言葉に嘘はない。確かにこの病気を患い続ける人は少ない幼少期に半数近くは自然閉鎖するのだ。では残りの半数は?治療や手術などにより完治する場合もあるがそれ以外に待ち受けているのは“死”だ。
外科手術を行いなおすにもタイムミリットがある。アイゼンメンゲル症候群となることで手術適応外となってしまう。そうなったら移植手術しか道がなくなる。しかし日本における心臓移植の事例は数えるほどしかない。日本はどこまでも平等で残酷だ。順番が来る前に亡くなってしまう人がほとんど。だからと言って金で命を買えるアメリカで移植手術を受けるには金がいくらでもいる。そもそも移植手術はヒト白血球型抗原が合う必要性がある。そしてそれが合う可能性は限りなく低いだろう。運に頼るしかない。心臓は、腎臓と違ってたった一つしかないから家族からもらうことも普通できない。
夕方、アナウンスが鳴り響く。毎年恒例の螢火祭りだ。霊を迎え送り出す、この村の特徴。彼女がまだ体の成長に心臓が耐えていたころは貞晴と一緒に屋台を回って、少し食べ過ぎてはしゃぎ過ぎて怒られてしまった。だが楽しかったしその想いではかけがえのないものとして若葉の中にずっと残っている。お人形のように飾られているだけでない人生がそこには確実にあった。
「あら?なにたそがれてるの?」
「っと。中野お姉さん、いつの間に」
中野は若葉が病院に出入りしてからずっとお世話をしてくれている。気が付いたときから若葉はずっとお姉さんと呼び慕っていた。
「定期健診。点滴の様子も見ないとだからね。気が付いてなかったの?」
「うん。ボーッとしてた」
「螢火祭り?」
「そう。今年はいけたらなーって」
「んー、そこは若葉ちゃん次第かなー」
中野はクスクスと笑って点滴の様子を見る。何かを調整しているみたいだがここからではわからないし、もしきちんと見たとしても分からないだろう。
「頑張ったところで治らないじゃないですか。風邪とかじゃないんですから」
「風邪も気力で治るわけではないけどね」
「なおさらダメじゃないですか」
頬を膨らませる。結局気力で病気がどうこうなるわけではないというのに彼女次第だというのだから。
「でも、気分が沈んでたら余計病気が舞い込むものよ?表面上だけでも元気になってたら風がひきにくかったりするの。はい、口開けて」
「あむ……。ほれ、ふぉんとうなんでしゅか?」
口に体温計を挟みながら喋るせいでうまく発音できない。その間にもなにかしらカルテに記中野の手際は若葉から見たら本当にいい。
「んー?嘘ではないわよ。もちろん、心理的な要素から来てるわけだから個人差はあるけどね。ほら?偽薬ってしらない?」
「ひやく?」
「プラセボ効果とかもいうけど、簡単にいったら全く関係ない薬を絶対に利くと信じ込ませて飲ませるとその病気が治るっていうやつ。まあ、こちらは確定ではないけどねー。でも、そういうデータとかもあるぐらいだし、全くの眉唾ではないわよー。はい」
体温計を口から出す。その体温をカルテにかいているようだ。
「プラセボかー。まっ、気で負けていたらダメだよね」
「そうそう!ダメよ?若葉ちゃんがいい子にして前向きにいたら私の方からもタヌキ先生にお願いしとくから」
「タヌキ先生厳しいからなー」
「自分は完全に生活習慣病が怪しいんですけどね」
「最近コーヒーとタバコの臭いが酷いです」
若葉の主治医、タヌキ先生はお腹が出っ張ってかなりのヘビースモーカー。全く根拠もデータもない若葉の経験則だが医者はタバコをとても吸う気がしたい。
若葉らがクスクスと笑いあっていると少しだけ騒がしい音が聞こえる。
「あら?今日はまだ来ていなかったんだ」
「そうです」
中野も誰が来たか分かったらしく小さく微笑むとぱっぱと片づけて定期健診を終える。
「ふぅ。若葉ー?」
病室をぶしつけにガラガラと開けて中に入ってくる貞晴。贅沢にも個室を用意してもらってるのだからノックの一つぐらいしてほしいものだが、そういうのをしないのが貞晴らしいから別によい。仮に着替えていたとして若葉の色々と未熟な体は一部のロリコン以外は欲情しないだろうし、若葉自身も欲情されない限りは恥ずかしさ等もない。
「こんにちは、そして兄妹と言えどせっかく個室なんだからノックぐらいしてあげなさい」
「いて」
額にデコピンを入れる。貞晴は軽くその額を抑えてごめんなさいと小さく頭を下げていた。
「患者さんの事を考えるのも看護師の仕事なのよー」
「そうですよね」
「そっ。看護師になりたいならまずそこら辺の常識や女心も理解してあげなさいねー」
クスッとまた笑うとそのまま外に出ていく。それを見送ると椅子を引っ張ってベッドの横に座る。
「あの人には敵わないな」
「お兄ちゃんが看護師になってこの病院に勤めたら確実に絞められるよ」
「こえぇ」
おどけて肩をすくめてみせる。
「今日も受験に向けて?」
「まあな……。一応四年生の大学に入って資格取りたいし」
「お医者さんにはなろうとは思わないんだ」
「医者なら、研究職に着きたいかな。俺は多分医者は無理だ」
小さく首を振る。それから少し考えて呟くように口を開く。
「確かに医者になって誰かの命を救うというのはやりたいけど、医者ってどこか過酷だと思う。助けなければいけない命なんていくらでもあるんだからどこかで区切りをつける必要性だってある。それなら何か一つの病気を研究したい」
「その理屈なら看護師だって同じじゃない?」
「そうだけど、そうじゃない。看護師はあくまでも間接的だし……。たぶん俺は直接誰かと関わったら自分が耐えられないと思うし、それこそストレスで胃に穴が開きまくる気がする」
なるほど、貞晴の説で行くならタバコを吸うのもよくわかる。もし貞晴がカウンセラーになったら一人目のうつ病患者とのカウンセリングでうつ病になりそうだ。
「そういや、さっきお姉さんと話してたんだけど病は気からって本当かなーって」
「あー、まあ、そうだろうな。仮に違うとしても暗いよりは明るい方がいいだろうし」
「……ねえ、お兄ちゃん」
「うん?」
「再来週の螢火祭り。最終日に一緒にいこ?」
少しだけ勇気を出して言った言葉は貞晴を絶句させて顔をこわばらさせた。
「お願い」
「……別に、螢火祭りなんていかなくていいだろ。そもそも外出許可出るか分かんねえし」
「大丈夫だよ。たぶん出ると思うし」
「その根拠はどこから」
「去年までと状況が違うから」
「…………」
若葉の言いたいことが分かったのか黙る。後もう少しだろうと思い諭すように話しかける。
「どうして、ダメなの」
「あんなの必要ない。なにが送り花火だよ」
「綺麗な話じゃん」
「自己満足の塊だ」
「お兄ちゃんだって小さいときは螢火祭り楽しみにしてたくせに」
「魂だろうとどんな形であろうと近くにいてほしいって思うのが普通じゃねえのかよ!」
少しだけ感情的になったその声で病室がシンと鎮まる。
「……ごめん」
「ねえ、お兄ちゃん」
「なんだ?」
「どちらにしろ、螢火祭りまでに私が生きていたのならその祭りで魂が運ばれるかどうかはわからない。それに螢が魂を運ぶに手もあんな小さな体で暴れる魂まで運べるとは思えないしね」
「螢が運ぶのは魂から導かれたたいと思った時、ということか?」
「だと思うなーあたしは。そうそう。魂って21グラムっていうじゃん。で、螢の体長が数ミリ程度。運べるとは思えないな」
そんなことを言ってあたしは笑う。お兄ちゃんはそれ以上何も言わずただじっとあたしを見ていた。
それから無言の時間が過ぎて行ってそろそろ面会時間終了が終了するころ。
「螢火祭り……。許可が出たのなら行こう」
「お兄ちゃん」
「でも、俺はあきらめない。できれば許可が出ない方がいいかもしれない」
そう告げると貞晴は外へと出て行った。許可が出ないということは治る見込みがあるということ。体力を温存し、手術に控えるということ。
だが彼女の体はアイゼンメンゲル化となっていた。
「時間は一時間、食べ物系等はカロリーの高い物や消化の悪いものは禁止だからな」
貞晴は決まり事を話す先生のごとく少しだけ冷たく言い切る。そんな姿にクスリと笑う。
「どうした?」
「ううん、何でもない。時間もないし、楽しもう」
首を振る。久方ぶりに腕には一切の薬剤を打ち込む針が刺さっていない。その代わりと言っては変だがもしもの時の薬も用意されている。
体は幸いにも薬に対する反応が“あまりよくない”。したがって副作用をそこまで恐れずに薬を投与することができた。それは数多くある不運の中で小さな幸運だった。うまく回らないことがついているのはそれらしい。
「よっし、じゃあまずは綿菓子食べよ!」
「お、おい!!走るな!!」
「はーやーくっ!」
若葉はゆっくりとしている貞晴の腕を引っ張って露店へ一直線に目指す。たった二人の螢火祭り開催だ。
吹っ切れた若葉の前には怖い物なんてない。帰省している家族連れの後ろにあたしも意気揚々と並ぶ。
「はぁ……。たく」
貞晴はため息を出して悪態をつくけどその顔はもう怒っていない。螢火祭りは認めないというスタンスは変わらないだろう。しかし、そんなの気にする必要な今は無い。
ある程度成長をすると人は未来を生きる。2時間後にこうしよう。明日はこうしよう。来週はこうしよう。来年は、10年後は……。そんな未来など必ずやってくる保障などどこにもないくせに未来を生きようとするのは、何も変わらない未来が99%来るだろうと信じて疑わないから。でも、若葉は違う。明日生きているか、と問われれば生きているだろうが、明日意識を保っているかと言われれば分からない。未来の不確実性が他の人より他界から未来ではなく今を全力で生きるしかないんだ。
「うん、美味しい」
露店価格となって少しだけ高い綿菓子を頬張る。そもそも綿菓子なんてこういった露店ぐらいでしか買わない気もするが、焼きそばとかたこ焼きだとかそういったものの価格は確実に普段買うよりは割高になっている。
「ただの砂糖の塊だぞ、それ?」
「んもー、わかってないなーお兄ちゃんは。人だってタンパク質の塊だよ?」
「いや、人はタンパク質以外にもいくつもの要素があるけど綿菓子は砂糖100%だろ」
「綿菓子は半分は気持ちでできているんだよ」
「どこかの頭痛薬みたいだなおい」
「さっ、次のところ!」
「だ、だからおい!」
「時間は、待ってくれないからさ」
少し振り返って告げると貞晴は一瞬真顔になって腕をひかれる。
村のアナウンスが大きく鳴り響くのは病院からいつも聞いていたけどそれもまた一興というものであることがわかる。100%無音のゲームと効果音もBGMもバッチリなゲームでは面白さはかなり変わってくる。
「やっぱり、音楽ってすごいよね」
「えっ?あっ、あぁ」
唐突な言葉に意図をつかみかねた感じの返事をする。若葉のなかでは解釈が進んでいる話なので何もおかしなことは無い。それに脈絡のない会話というのは女の特徴というものだ。
「元気な曲を聴くと元気になれるしクラシックとか聞くと頭がよくなるような気分になるし」
「モーツァルト効果のこと言ってんのか?だとしたらあまりあてになんねえぞ?……ほらっ、スポーツドリンク飲め」
「なにそれ?モーツァルト?あの音楽家の?……うん、って、味薄!?」
「しらねぇのかよ……。まあ、簡単に言うとモーツァルトを代表とする曲を聴くと賢くなるっていうものだ。……そりゃ原液のままだと濃いからな。薄めて丁度いいんだ」
「へー、じゃあモーツァルトばっかり聞いてるといいのかな?……うぅ~ん。でも、いつにまして薄い気がする」
「そういうんじゃねえよ。あてにならねえつったのもそんな単純じゃないって研究結果があるし。かと思ったらこの前いってた病は気からみたいに単純なこともある。そのスポーツドリンクだって普段と同じ薄め方だ。味が薄く感じるのは周りがうるさいから。味覚が落ちるらしい」
「へー、そうなんだ。人間ってややこしい」
「……あぁ。まだ未開の域は高々170の人間、大きくても200cmとかそれぐらいしかなくても不思議なことで満ち溢れている。だから―――」
「ごめん、お兄ちゃん。少し疲れた、休憩させて」
少しだけ荒く呼吸を吐く。少しずつ疲労がたまり我慢が仕切れなくなっていっていた。
「あぁ。そこのベンチで」
貞晴は肩を回してベンチまで案内する。こんなときに大丈夫か?なんて言葉をかけないことが優しさだ。大丈夫なはずがないのだから。
ベンチに座るとそこは草陰だったらしく螢火祭りの名に恥じない螢がやってくる。
「ゆっくり休憩しろ。深く深呼吸して」
促されるまま深呼吸をする。そのまましばらく呼吸をしていると徐々に徐々に瞼が重くなっていく。
「別に、寝てもいいぞ」
「やだ……。せっかくのお祭り。お兄ちゃんとの、お祭り……」
「…………」
何も言わず頭を優しくなでた。それがとどめになったように、若葉は深い眠りに落ちた。
すーすーという呼吸が聞こえてからも貞晴は頭を撫でることを止めなかった。それからたっぷり五分ほど過ぎた所で彼女をおんぶし抱える。それぐらいの揺れでは起き上がることは無かった。アイゼンメンゲル症候群とまでなっているにもかかわらずこんなに大きく動けるのは奇跡と言わざる得ない。
血液も濃く、ヘモグロビンも順調であり、ヘマトクリット値39%ある。だからといってずっと起き続けれていることが確実という訳ではない。
運が悪ければ昏睡状態に陥ることがあるし体が追いつかずに全く動けないということでも別段不思議ではない。元から身長が低い家系であることが幸いしてのかそれとも……。そのあたりはわからない。
ベンチから10分ほど歩いたところで病院の前につく。
うるさくならないように静かに扉を開ける。勝手に病室に入るわけにはいかないのでナースステーションに顔を見せるとすぐに気が付いた中野が貞晴の前に出る。
「おかえり。疲れて眠っちゃったのね」
中野は若葉の頭を優しくなでる。
「えぇ。はしゃぎ過ぎたみたいです」
「ふふっ。楽しみにしてたから」
「でも、こんなに早く疲れるなんて……」
「ダメよ。眠ることで体力を温存しているんだから」
「寝ることで……」
そんなことは分かっている。眠りというのは体力を温存し、かつ体力を回復する最高の手段といえる。もちろん、ずっと眠っているのがいいのかと言えばあまりに長い眠りは脳にダメージを与えてしまう。
「でも、あまりに眠りにつくタイミングが早くなってきている気がします……」
貞晴の呟きは聞こえていたのかそれとも聞こえていなかったのかエレベーターを呼び出して中に入り目的の階へと進む。ベッドに寝かせて汗を軽く拭う。
「中野さん」
「うん?」
「オレ、やっぱり医療関係の職になれるかなって」
「どうしたの、急に?」
「人間って未だ分からないことばかりで、たった今助からない病気でも明日には助かってるかもしれない。そんなことを考えると人を見捨てるってことができなくて。1人にかまかけそうで」
「そうね……。私も同じ気持ちよ。でも」
中野は安心させるように彼に笑いかける。
「確かに貞晴君の言うとおり医療の世界は一晩で変わることがある。治すことができないと言われている病気だって治ることもある。若葉ちゃんの心室中隔欠損だって、移植以外の方法としては穴の開いている心臓を自然治癒させる方法を確立させれば大丈夫。だけど実際問題そういう訳にはいかない。だって、不確実な人間を助けるよりは確実な人間を助けなきゃいけないしね」
だけど、と小さく続ける。
「そういう気持ちを持ち続けることって大切だと思うわ。若葉ちゃんはもう移植手術しか助かる道はない。仮に明日再生技術が見つけ出せたとしても臨床までいくには時間がかかる。でも、助かる可能性に欠ける。そんな風に思い続けることが大切よ。さっ、貞晴君ももう帰りなさい」
「はい、ありがとうございます。若葉をよろしくおねがいします」
「花森さん、あのカルテは……ってあら」
ナースステーションに入った中野はクスクスと笑いをかみしめる。それからゆっくりと肩をゆする。
「起きて、貞晴君、貞晴君」
「んっ、ん……。ここ―――って、あっ!」
「静かに」
「えっ、あっ、すみません!寝ちゃって……」
「わかるわかる。眠いもんねー。だけど、もうお給料もらってるんだから居眠りはダメよ」
「いてっ」
デコピンを打たれた貞晴は頭をさする。
「徹夜は慣れてると思ってたんですけどね」
「夜勤と徹夜はまた違うからね。まあ、そのあたりはゆっくり学んでいけばいいわ。なんせ久しぶりの若い看護師だし」
「あはは……、だから反応に困りますって」
遠回しな自虐ネタに貞晴は苦笑いをこぼす。その後ようやく時間を確認すると午前の4時を指していた。朝日も登り始める時間だ。気の早い蝉の鳴き声が聞こえてきそうだ。
「もう、今年で7回忌、になるんすね」
それが誰の死からであることを問いただすほど中野も空気が読めないわけじゃない。
「……そうね。早いものよ。特に歳を取るとね」
「だ、だから……」
また困った笑いを浮かべる貞晴。それを知ってか知らずか気にした様子もなく中野は独り言のように喋る。
「螢火祭りもそろそろ、か」
「……」
その言葉を受けて思わず顔を顰める貞晴。
「やっぱり、まだ嫌い?」
「そう……ですね。私と若葉を引き離している祭りに思えて。でも、若葉が最後に見せた笑顔がこの祭りですし……。複雑な気持ちです」
こうして看護師の衣装に身を包むとなぜか自然と一人称が私となる貞晴。それもまた年月の影響なのかもしれない。もしこの場に若葉がいればお兄ちゃんが私ってなんだか似合わないなんて茶化しそうなものだ。
数年前の螢火祭り。その終了後から若葉が目覚める時間は劇的に少なくなった。それは螢火祭りではしゃぎ過ぎたからではない。むしろ今まで起きていたのが奇跡に近かった。それを意識が残っていたのは彼女が気力で過ごしていたからだ。その気力を奪ったのが螢祭りなのか、それとも気力を持たせてくれていたのが螢祭りなのかは分からない。
「さてと……。それで501号室の花菱さんのカルテだけど」
「少し待ってください……。えっと、あったあった。こちらです」
胃に腫瘍の見つかり入院している患者のカルテを引っ張り出すと中野に渡す。
「うん、それじゃ今日はもう上がりなさい」
「えっ?でも……」
「命日の日ぐらい早く上がりなさい。幸いなのかどうかわかんないけど今日は忙しくないし」
「ありがとうございます」
中野に頭を下げると更衣室へすっかり学生気分のなくなっている私服へと着替える。なぜおじさんくさい服とかを迷いなくおじさんは着るのかと不思議に思っていたが自分がそうなっていくのに従いなんとなくわかるようになっていた。
朝になって少しその陽ざしに顔をぐっと閉じる。そのまま真っ直ぐ帰路にきこうかとしたところで立ち止まり露店の合間を縫って7年前に座ったベンチに行く。
「久しぶりだな」
ここに来るのは7年。このベンチになにか恨みがあるわけではないが、どうしてもここに立ち寄る勇気はわかなかった。
「大人になったということかな」
呟いてすぐに苦笑する。自分はまだまだガキだ。
あの時の自分は若葉の遊びたいという気持ちを否定してまで螢火祭りを嫌っていた。若葉と別れるのが辛いから。
でも、看護師となって一年目、もっと言えば学生時代からインターンシップ等で病院に来て、ガン末期の患者からバイクで事故を起こして足を骨折したといった人物を見てきた。今になって助かる人物と助からない人物の差といったものを理解するようになってきた。だが、それでも若葉ぐらいの年齢が入院してきた時は少し熱が入ってしまうことを自覚している。仕事に私情を持ち込むガキだ。
「若葉。螢火祭りだぞ。帰ってきてるか?」
嫌悪を抱いていた螢火祭りをエサに若葉に呼びかける。あの時は食べられなかった焼きそばやお好み焼き、たこ焼きを食べることが霊体ならできるかもしれない。残念なことに貞晴には霊感というものがゼロだ。もしかしたら自分の周りに若葉がいるのかもしれないがそれをみることはできない。霊感が強い方がいいのか弱い方がいいのか……。
「若葉と一緒に今なら祭りを楽しめるかな」
昼間にもかかわらず現れ踊る螢。その蛍が貞晴の後ろに集まる。まるで言霊として何かに操られるかのように。
「はぁ。こいつらはオレの声を届けてくれるのか?なら伝えてくれ。オレも次期にそっちにいく。オレがそっちにいくか、それとも輪廻転生ってのがあるのなら輪廻転生して、まあ、オレの娘にでもなってくれよ」
もちろん、仮に娘が生まれたとしても若葉となんて名づけるつもりはもうとうないが。
その言葉を受けたのか螢の羽音かは分からないが若葉の声でウンと聞こえた気がした
「ははっ。疲れてらぁ」
蛍の羽音か、それとも幻聴か。どちらかは分からないが疲れているだけなのだろう。
螢相手に馬鹿らしいが手を振って貞晴は一度眠るために家に帰った。