心のとびら
「これって、『マスター・トランプあばれちゃん』のフィギアじゃない。
このマンガが好きなの?
私もこのアニメ大好きで、毎週見てたわよ。」
ヒロシ君の部屋のすぐ右にあるラックにアニメの女の子のキャラクターが飾られていた。
「そんなの知りません!勝手に部屋に入ってこないでください!」
私は部屋の外に押し出された。あ、しまった。
「あ、ごめんなさい。」
バタン。
部屋のドアを閉められた。
「先生、すみません。」
ヒロシ君のお母さんがうしろから私に謝ってくれた。
「いえ、私の方も、何も考えずに入ろうとしたので、悪いと思います。すみません。」
私は問題のある児童を抱えるご家庭に、市から委託を受けて訪問する相談員。
「これから、毎週、訪問させて頂きます。」
「ご面倒をおかけします。どうか、よろしくお願いします。」お母さんはそう言って私を見送っていたものの、この訪問がよいことなのか、悪いことなのか、この訪問に何かの意味があるのか、ないのか、疑問と不安に包まれた雰囲気だった。
だけど、何かにすがるしかない。
これが本音なのだと思う。
それが、1回目の訪問、それから3ヶ月。
最近は、「ヒロシ君、部屋に入ったりしないし、何も話したりしないから、顔を見せてあいさつだけしてくれないかな。」とお願いすると、部屋のドアを開けてくれて、「こんにちは」「こんにちは」とあいさつするようにはなった。
水曜日の4時。
「今日はヒロシ君の家に行く日なのに…」
病院のベッドの上で、ギプスで巻かれた左脚を見ながら、私は独りつぶやいた。
ヒロシ君に言ったりはしないが、部屋のラックのフィギアが増えていたのには気づいていた。
『あばれちゃん』の仲間や友達のフィギアで飾られて、最近は、4体にまで増えていた。
電動自転車というのは危険な乗り物だ。もちろん運動神経のよくない私にとっては、という前提つきだが。
初めて、電動自転車に乗ろうとしたら、こぎ始めに突然、予想もしない速さで自転車が自動に前進し始めた。私はパニックになって、バランスを崩し、自転車ごと横に転んでしまった。
左脚に激痛。
そして、同僚に車で運ばれてこの病院に来た。
それが昨日。
骨にはひびは入ったが、幸い、ギプスはつけたままでも、杖をついてなら、すぐに歩けるそうである。
明後日には退院。
仕事にもすぐに復帰できそうだった。
コンコン
個室のドアがノックされた。
そっとドアが開いて、一人の女の子が顔をのぞかせた。
私と眼が合った。
「先生!」
女の子はニコッと笑った。
「あかりちゃん。」
女の子は個室のドアを大きく開けて、堂々と部屋の中に入ってきた。
「みんなとお見舞いに来たよ。」
あかりちゃんのあとに、フリースクールの生徒のメンバーが3人、はやた、しゅんいち、まやちゃん、と指導員のS先生が続けて入ってきた。
「わぁ、みんな来てくれたの!」私は驚き、喜んだ。
「先生、骨折ったのって、はずかしくねぇ」
あかりちゃんは思ったことを思った通りに言ってしまう。それに骨折ではなく、ひびが入っただけなんだけど。
「これ、失礼でしょ。先生、大丈夫ですか。」指導員のS先生が取りなした。
「ありがとうございます。先生、思った以上に軽傷で、明後日には退院なんですよ。」
「わぁ、そうなんだ。よかった。」と、あかりちゃん。
フリースクールのみんなが来てくれて和気あいあいと時間を過ごした。
私は、フリースクールにも週に1度訪問している。
そこでは、子供達と一緒に遊んだり、何かに取り組んだり、話したり、いろいろなことをして時を過ごす。
この子達は、学校には居場所を見つけることができなかったが、フリースクールでは居場所を見つけることができた。
子供はそれぞれのやり方で成長する。
学校に通って、大多数の子供と同じように過ごし、成長していく子もいれば、他の子供達とは違う過ごし方で、成長する子もいる。
それが、フリースクールだったということだけなのだ。
だけど、ヒロシ君は、まだ、自分の居場所さえも見つけられていないのかもしれない。
「先生、じゃぁ、きっと、またスクールに来てね。約束よ。わたし待っているからね。」あかりちゃんが、元気に手を振りながら私にさよならをしてくれた。
「うん、ありがとう。すぐに治して、また行くね。」と私は答えた。
フリースクールのメンバーが去って行った。
静寂。
個室の壁に掛けられている時計の音が、一段と響いているような気がした。
私はしばらく、時計の音に耳を傾けながら、自分がこうして、子供達に関わっていることによって、自分自身も居場所を見つけられているのだ、というようなことを考えていた。
コンコン
また、個室のドアをノックする音が聞こえたような気がした。
でも、その音は弱々しく、耳の錯覚かもしれなかった。
コンコン
今度は間違いなくノックされた。
「はあい。」私は部屋の外に聞こえるように、通る声で返事をした。
ドアがそっと開いて、「先生、お邪魔します。」と女性が入ってきた。
「ヒロシ君のお母さん!」私は驚いた。
そう、ヒロシ君のお母さんだったのだ。
「今日、代わりの先生がお見えになったので、伺いますと先生がケガで入院されたと…」と事情を説明しながら入ってきたお母さんの後ろから、ヒロシ君もそっと入ってきた。
「…それで、お見舞いに参りました。」
「そうなんですね。すみません。お気遣いいただきまして。」私はヒロシ君の方を見て「ヒロシ君も来てくれたのね。ありがとう。」と声をかけた。
ヒロシ君はチラッとだけ私を見て、照れながらうつむきがちに数回うなずいた。
「お怪我は大丈夫なんですか?」ヒロシ君のお母さんが会話で埋めようとした。
「意外と軽くて、明後日には退院なんです。」私もそれに応じた。
ヒロシ君のお母さんも、ヒロシ君の教育に関してなら、話題に尽きないところがあるが、お見舞いに来て、しかも、ヒロシ君の目の前で、まさか教育相談をするわけにはいかない。そして、このお見舞いのような、それ以外の場では、話題が豊富というタイプではなかった。
私は、さっきまでいたあかりちゃんとの会話を思い出しながら、会話が途切れないように努力した。
あかりちゃんの尋常ではない会話力に、私は感謝した。
「あまり、お邪魔しても申し訳ないので、これで失礼します。」ヒロシ君のお母さんが切り出した。
「あ、ありがとうございます。すみません。何もお構いなしで申し訳ありません。」
「いえ、こちらこそ、急に押しかけて、申し訳ありません。」
ヒロシ君のお母さんはずっと持っていた紙ぶくろの中から包装されたお菓子の箱を取り出して、「これ、つまらないものですけど、よかったらお召しあがりください。」と言って、私に差し出した。
「いえ、こんなお気遣い頂いて…」
「どうぞ。せっかくなので、」
「どうも、すみません。ありがとうございます。」と私が遠慮がちにお菓子の箱に手を添えて受け取ると、菓子の箱の上に、さっと、フィギアが一つ置かれた。
それは『あばれちゃん』のフィギアだった。ヒロシ君が部屋から持ってきたのだ。
「あれ、これ、『あばれちゃん』の…」私はヒロシ君を見た。
「あら、この子ったら、すみません、先生。」ヒロシ君のお母さんは意表を突かれたようだった。「先生、困ってらっしゃるでしょ。」
「これ、私にくれるの?」私はヒロシ君に聞いた。
「はい。」ヒロシ君はうなずいて、「お見舞いです。」と答えた。
「ヒロシ君が大事にしていたものなんでしょ。」
ヒロシ君は、うなずいたが、慌てて、首を振って否定した。
「お見舞いなんで…」
「ありがとう。ヒロシ君、私大事にするね。『あばれちゃん』は好きなんだ。」
「知ってます。」ヒロシ君はぼそっと言った。
「先生、すみません。ご無理しないでくださいね。要らないなら、言ってくださいね。」とヒロシ君のお母さんが取り繕ってくれた。
「今日は、ありがとうございます。来週からはまた訪問できると思います。」
「それでは、失礼します。」
二人は部屋を出た。
再び静寂。
私は少し脱力した。
ほんの2、3分して、コンコンとノックの音がまた聞こえた。
「はい」私は返事した。
「先生、すみません。」ヒロシ君のお母さんだった。
「あれ、忘れ物ですか。」
「いえ、私、言い忘れて…」
ヒロシ君のお母さんは話してくれた。
「お見舞いに行こうと言ったのはあの子なんです。先生。」ヒロシ君のお母さんは涙声になっていた。「あの子から、外に、出ようと…、人に、会おうと…」
「これだけは伝えたくて。先生、これからもよろしくお願いします。」お母さんは深々と頭をさげた。
「いえ、こちらこそ…」私もそう答えるので精一杯だった。
「では、あの子を待たせていますので。」
そう言って、ヒロシ君のお母さんは去って行った。
私は、あばれちゃんのフィギアを見ながら思った。
私がノックしていたのは、部屋のとびらではなく、私がノックしていたのは、心のとびらだったのかもしれない。
閉ざされた心のとびらをノックして、再び心のとびらを開いてもらう。
責任は重大だ。
だけど、子供はそれぞれのやり方で成長する。
まずは、心のとびらを開いて、外の世界に一歩踏み出す。
そして、さぁ、もう一度、出発だ。