あまのじゃく
「あちらのお客さまからです」
ふいに目の前にロックグラスが置かれた。
綺麗な球形にカッティングされた氷に琥珀色の液体がまとわりついている。
俺はマスターがかざした手の方を見た。
カウンターの端で、女が片手を挙げ、指先を振っていた。
明らかに酔っている。文字通り酔狂な客だ。
今時こんな古典的なことをするなんて。しかも女から。
白状すると、店に入った時から気になっていた。
意識して離れた席に座ったが、遠くからでも美人のオーラを放っている。
こんな時間に一人なんて、失恋でもしたのだろうか。
「マスター、あちらのお客さまにチェイサーを」
俺が頼むと、マスターは苦笑いをしてうなずいた。
しばらくして気配を感じて右を向いたら、酔った女が立っていた。
「ねえイケメンのお兄さん、私と飲まない?」
「悪いけど酒に飲まれるような女に興味無いんだ」
俺は持っていたコリンズグラスを左右に振った。女を追い払うように。
「ふん。カッコつけちゃって!私のお酒は飲めないってわけ?」
「いや、いただいたお酒はこれから飲みますよ。酒は好きだからね」
「そのお礼がお冷やってどういうこと!」
「いや、かなり酔ってるみたいだから。もう今夜はその辺にしておいたらどうかなと思って。
水を飲むだけじゃなくて、できたら顔も洗った方がいい」
「バカにしないでよ!」
女はヒールを鳴らして去って行った。
「なんだいマスターあれ。酔っぱらいの女なんて、この店にしては珍しいね」
「あーあ、長瀬さん気に入られちゃったみたいですね。知りませんよ」
マスターはそう言って意味ありげに笑った。
まあいい。酔っぱらいには関わらないことだ。終電が近い時間は特に。
ジントニックを飲み終えたので、俺はおごられたロックグラスを傾けた。
ん?
「マスター、これスコッチ?」
「はい、マッカランです。うちで一番高いシングルモルトですよ」
悪いことしたな。
お礼言わなきゃと思ったが、カウンターに女の姿は無い。
トイレか?
「ねえマスター、彼女何者か知ってるの?」
「さあ?個人情報ですから」
意地悪く笑っている。
しばらくして女が戻ってきた。
驚いた。本当に顔を洗ってきたのだろうか?
完璧にメイク直ししていた。
乱れていたヘアもアップにまとめて、さっきまでの酔っぱらい女は俺のドストライクの美人に変身していた。
「ねえ、あなた名前は?」
「人に名前を尋ねる時は、まず自分から名乗るもんだ」
うろたえながら、かろうじて返した。
「エンジェルよ」
ブッ!
思わずチェイサーを吹き出してしまった。
「あなたは?」
本当に天使のように微笑んで訊いてきた。
「天邪鬼だ」
「あら、嘘つきなの?今までいっぱい女の子泣かせてきたんでしょ?」
「黙秘権」
「あっ、否定しないんだぁ」
なんなんだこの女?
さっきまでの酔っぱらい女と別人?でも服は同じだ。
彼女は相手の目を見つめて話すタイプらしい。美人でこの手のタイプは、こっちが照れる。
「冗談よ。本当は真面目なんだよねぇ。マスターに聞いた通りだわ」
ん?どういうことだ?
「あなたに嫌われたままでいたくないから白状するわ。酔った振りをしていただけ。
あなたが失恋して落ち込んでるから慰めてやってくれって、マスターに頼まれたの」
マスターの笑みの意味が分かった。
まったく余計な気を遣わなくていいのに。
いや、こんな美人とお近づきになれるなら嬉しい気遣いか?
「マスター、フリ長過ぎだよ!」
俺は形だけのクレームをつけた。
「いや、長瀬さんこのところ独りで淋しいお酒が続いてたから」
終電間際の店内に、他に客はいない。
一気に打ち解けたように錯覚してしまったが、まだ問題は解決していない。
「エンジェルさんは本当は何者なの?」
「あら、私に質問?天邪鬼さん、あなたさっき私になんて言ったか覚えてる?」
「なんだっけ?忘れちゃったな」
「私に興味無いって言ったのよ、この私に!酔っぱらいは嫌いだって」
「嫌いだとまでは言ってないよ。興味無いって言ったんだ」
「あら?覚えてないんじゃなかったの?」
「だから、俺は天邪鬼なんだよ。本当は興味しんしんだったんだ」
「まあ素直な天邪鬼ね」
「いじわるな天使だな。思いつきで言っただけだよ。天邪鬼なんて」
「ふふっ。本当に真面目。真面目な人って好きよ」
「真面目で悪かったな」
「真面目な上に、にぶい天邪鬼なのね」
「えっ?」
「もう!私、今告白したのよ。好きよって」
長い夜になりそうだった。
fin