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過去作

ヨーコちゃんのピアノ

作者: 市尾彩佳

「うわぁ………」

 小学三年生の美咲は大きく開いた目を輝かせて、目の前のピアノに見入った。

 梱包を外されリビングの壁際に置かれたのは、アップライトピアノ。

 今まで電子ピアノで練習してきた美咲にとって、念願のピアノだった。

 ピアノ教室のようにグランドピアノじゃないけどピアノ。中古だけど美咲のピアノ。

 ピアノを運んできてくれた人たちを、お母さんは玄関へと送っていく。

 配送の人たちが帰るのを待ちかねていた美咲は、飛びつくようにピアノのそばに寄った。傷一つない黒くてぴかぴかの表面に美咲が映る。二つに分けてくるりと丸めピンで留めた髪も、もともと大きな目を嬉しさでもっと大きく開いている様子も、鏡でも見ているようによくわかる。

 けれど美咲は、そんな自分の姿を見てはいなかった。視線はすでにピアノのふたの向こうに吸い込まれている。手探りで椅子に座って、どきどきしながらふたを開いた。鍵盤の上に敷かれた布をとり、指を置く。

 が。

 ばたーん!

 ふたがひとりでに閉まった。

 とっさに指をひっこめたけれど、あと少しではさまれるところだった。心臓はばくばくいうし息が引っ込んで声も出ない。

 安全装置が付いてるから、うっかりふたから手を離してもばたんって閉まらないはずなのに……。

 美咲が訳もわからず呆然としていると、どこかから知らない声が聞こえた。

『あたしのピアノを勝手に弾かないでちょうだい』

 美咲はびくびく振り返ってリビングを見回した。だれもいないと思ったけれど、正面に戻した顔の目の前に、レースのソックスをはいた足がぶらさがっている。ぎょっとして顔を上げると、ピアノの天板に座った女の子がにやっと笑った。

 いつの間に登ったんだろう? ていうか、だれ?

 おかっぱで色白の、かわいいワンピースを着た美咲と同い年くらいの女の子。

 色白というか、白すぎてリビングの壁紙やピアノが透けて見えた。気になって手を伸ばし、ソックスに触れようとした。けれど指先はソックスどころか足首にも触ることなくピアノに当ってしまう。

「~~~!!」

 美咲は恐怖にひきつって卒倒しそうになった。背もたれがあったおかげでかろうじて椅子から落ちずにすむ。

 戻ってきたお母さんが、美咲にお小言を言った。

「みさちゃん。さっきピアノのふた、ばたんってしなかった? せっかく買ってあげたんだから大事にしなさい」

「おっおかーさんっ! お、おおおばっ、ゆ、ゆーれ」

 背もたれにしがみつき、美咲は女の子を指差した。

 お母さんは美咲が指差す方をちらりと見ただけで、首を傾げながら美咲に言う。

「ちゃんと練習するのよ」

 すりガラスのドアを開けてキッチンに行ってしまった。

 残された美咲は、怖くて腰が抜けて逃げ出せない。女の子はバカにした笑い声を立てた。

『よおっく聞きなさい。これはあたしのピアノよ。誰もあたしの許可なしに触っちゃいけないの。…っていっても、あたしのことそんなに怖がってちゃ、もう近付くこともできないよね』

 “あたしのピアノ”?

 それを聞いた美咲は、立ち上がって女の子に叫んだ。

「これはわたしのピアノよ! あんたのじゃないわ!」

 これは美咲のピアノだ。ずっとずうっと欲しいと頼んでいたピアノだ。お父さんお母さんだけじゃなく、おじいちゃんやおばあちゃんにもおねだりして、他の欲しいものを我慢して、ようやくみんなからの誕生日プレゼントとして買ってもらったものだ。

 どこの誰で、何で幽霊なのかなんて知らない。そんなことより、美咲のピアノを自分のモノだと言って、一歩間違えば指を大怪我するようなことをしたことが許せない。

 ふたは重くて危ないから気を付けて開け閉めするよう、ピアノを弾くひとは誰でも最初に教わるはずなのに!

 美咲はめいいっぱい力をこめて女の子をにらんだ。怒りだした美咲にちょっとだけたじろいだけれど、女の子も負けじとにらみ返す。

 そのとき美咲は、女の子に怯えたことをすっかり忘れていた。


 女の子はずっと見張っているわけではなく、たいていピアノの上に寝そべっていた。気付かれないようにそうっとリビングにすべりこみ、こっそりとピアノに近付く。ふたに手がかかればこっちのものだ。すかさず開けて鍵盤の脇にふたを支えられる厚みのある物を置く。最初ピアノが痛まないようにとクッションを使ったけれど簡単にはじかれてしまった。教科書やノート、かばんなどいろいろためしてみて、漢字の辞書が一番うまくいった。置いてふたを閉じてしまえば、辞書はふたの曲りにひっかかってはじくことができなくなる。難点は高さがないために鍵盤がよく見えないことと、指を動かすのに十分な隙間がないこと。それでも弾けるだけまだましだ。先に感づかれてしまうと女の子はふたの上に立って開けられなくしてしまう。

 美咲が苦労して編みだした方法も、お母さんにみつかって水の泡になった。

「どうしてちゃんとふたを開けて弾かないの。危ないでしょ」

 お母さんはちゃっちゃとふたを開けて辞書を持っていってしまう。お母さんがリビングから出ていってしまうと女の子がにたりと笑った。

 ばたーん!

「ふたをばたんばたんしちゃだめだって言ってるでしょ! 安全装置をつけてあるから手を離したってばたんって閉まらないのに、どうして乱暴にふたを閉めるの!」

 キッチンからお母さんが怒鳴る。美咲はべそをかきそうになりながら答えた。

「わたしじゃないもん! ゆーれいが」

『ひとのこと、いつまでもゆーれいゆーれいうるさいわね。あたしにはヨーコっていう名前があるのよ』

 ヨーコはすねたように頬をふくらませて言った。


 宿題に出されていた曲を弾き終えても、先生は少しの間黙ったままだった。

 グランドピアノだけでいっぱいの部屋は、扉も窓もきっちりと閉められていて、ピアノの音がなくなると小さく運転しているエアコンの音がやけに響く。

 先生はきれいに化粧をした顔をくもらせて、小さくため息をついた。

「ピアノを買ってもらって張り切って練習してくると思ってたのに、どうしちゃったの?」

 美咲はうなだれた。ヨーコのせいだ。ヨーコのせいで練習らしい練習ができなかった。でも先生に言えなかった。そばにいるお母さんに信じてもらえないことを、実際にあのピアノを見ていない先生にわかってもらえるわけがない。

 ヨーコはお母さんの目のあるところでは動かない。そういうところずるがしこいと思う。……けれど、お母さんだったらピアノが大好きな美咲が乱暴にふたを閉めたりなんかしないことをわかってくれると思ってた。

 レッスンは散々だった。間違えては美咲の指が止まり、先生に何度教えてもらってもつっかえてしまう。曲がとぎれとぎれになって、弾いてるという気持ちがしない。

 こんなに楽しくないレッスンははじめてだった。

 今までは、レッスンが楽しくて仕方なかった。キーに重みのない電子ピアノしかなかったから、ピアノが弾けるレッスンが大好きだった。美咲の気持ちを先生もわかってくれて、注意にあまり時間をかけずレッスンの時間いっぱい弾かせてくれた。

 先生はまたため息をついて、今日はここまでと言った。

「先週のがうまかったわよ? ……来週も同じ曲を頑張ってきてね」

 はい、と声を出して返事することもできなかった。


 レッスン室を出るとお母さんが迎えに来ていて、美咲はお母さんと一緒に家に帰った。

 リビングで宿題をしていると電話が鳴って、夕飯の支度をしているお母さんが出た。

 少しして電話が終わると、お母さんはリビングに来て美咲に言う。

「おうちで何か心配事でもあったんですかって、ピアノの先生が心配して電話をくれちゃったじゃないの。練習しないならピアノ教室やめさせるわよ。タダじゃないんだから」

「やだ!」

 美咲は必死に叫んだ。家で満足に弾けないのにピアノ教室でも弾けなくなったら、ピアノを弾ける場所がなくなってしまう。

「やだじゃありません。だったらちゃんと練習しなさい」

「だからゆーれいがじゃまして」

 お母さんは、腰に手を当てて大きなため息をついた。

「みさちゃんは、どうしてそんな言いわけをするようになっちゃったのかしら」

 美咲はショックで息を呑んだ。

 何も言えないでいると、お母さんは美咲の様子に目もくれず、忙しそうにキッチンへ行ってしまった。

 晩ご飯を作る音がする。戸棚を開ける音、コンロになべを下ろす音、野菜を切る音。いくつ音が変わっても、美咲はテーブルの横で正座したまま、鉛筆を持つ手も動かせなかった。

 息が上手く吸えなくて苦しくて、悲しくて涙があふれてくる。

「うえっ、ひっく」

 小さな嗚咽を上げて涙もふかずに泣いていると、ピアノのほうから声がした。

『ちょっとだったら弾かせてあげてもいいわよ』

 鼻をすすりながらピアノを見ると、寝そべったヨーコがふてくされた顔をしてぷいと顔をそらしていた。さんざん邪魔してきたヨーコが口にした言葉とは思えなくて、美咲はまじまじとヨーコを見た。ヨーコは口をとがらせる。

『弾きたくないんならいいわよ』

 美咲は手の甲で涙をぬぐって、慌ててピアノの椅子に座った。でもいつ気が変わるかわからないから、ちらちら視線を向けつつふたを開けて楽譜を用意する。

 弾き始めてもヨーコは邪魔してこなかった。むすっとしてそっぽを向いてるだけだ。邪魔する気がほんとうにないのだとわかると、美咲はピアノにだけ集中できた。集中しだすとあっという間にピアノを弾く楽しさに引き込まれる。

 さっき泣いたことをすっかり忘れて夢中になって弾いていると、ヨーコが不機嫌な声で言った。

『あんた下手ね』

 美咲はむっとして顔を上げた。ヨーコが天板からずり落ちかけながら、手を伸ばして楽譜を指差す。

『楽譜読めてる? そこは付点二分音符と四分休符、全音符じゃないわよ。それにこの曲は前半がメッゾピアノで後半がメッゾフォルテ。ずっと同じ調子で弾いてどうすんのよ』

 ヨーコはあたしが弾いてあげると言い出して、ピアノから降り美咲のからだに重なってきた。すりぬけられて気持ち悪かったけど、ヨーコが美咲の指を使って弾き始めるとその上手さに感心した。

 言うだけある。

 すらすらと弾きこなす。強弱を巧みにきかせたなめらかな音色は、ピアノ教室の先生よりきれいかもしれない。これに比べたら美咲は音符をなぞっているだけだ。

 美咲はしばらくヨーコに任せて、上手に弾ける気分を楽しんだ。

 料理の手が空いてリビングに顔を出したお母さんは、美咲がわき目もふらずにピアノを弾いている様子を見て、安心したように微笑むとそっとキッチンに戻った。


 ヨーコがピアノを弾かせてくれたのは、その一回きりだった。

 翌日には、すぐさまピアノをめぐる攻防が再開する。美咲は漢字の辞書を持ってそろりそろりピアノに近付き、ヨーコは隙をつかれてなるものかと目を光らせる。

 相変わらずにみえて、少し違ってきたことがある。

『~~~辞書をピアノにはさむなんて信じられないっ! なんてヤバンなの!』

「ふふーん。何とでも言ってなさい。今日は私の勝ちだからね。あんた一日中寝そべってばっかで、ボケてきてるんじゃないの?」

 前よりずっとたくさん、美咲とヨーコはしゃべるようになった。

『こんだけじゃましてるのにまだあきらめないの?』

「あきらめないよ! だってピアノ大好きだもん」

 大好きだからこそ、ピアノをヨーコに譲るわけにはいかない。学校にもピアノはあるけど弾かせてはもらえないし、練習できなきゃお母さんにピアノ教室をやめさせられてしまう。電子ピアノはこのアップライトピアノを買ってもらった時に中古屋さんに売ってしまった。だから、美咲はこのピアノを弾くしかないのだ。

「これはわたしのピアノだって言ってるでしょ! お父さんやお母さんや、おじいちゃんおばあちゃんたちがお金出しあって買ってくれたわたしのピアノなの。あんたのじゃないわ!」

『何言ってんの。あたしのは新品よ! あんたのは中古でしょ。あたしのピアノがまちがってあんたんとこにきちゃっただけよ! ……だって、パパとママが、あたしがピアノ弾けなくなってもこのピアノは売らないって約束してくれたんだもん。だからあんたのところにあるのはまちがいなのよ』

 沸騰していた美咲の頭がふっと冷えた。

 ピアノを弾けなくなっても。

 ヨーコはピアノを弾けなくなった?

 どうして弾けなくなったのだろうか。そう思ったら、今まで気にしたことなかった、ヨーコが幽霊になった理由も気になった。

 美咲は声を落として尋ねた。

「ヨーコ…あんた何で死んだの?」

 ふたの上に立って泣きそうに唇を噛んでいたヨーコは、しゅんとしてするりすべってふたの上に座った。

『病気だったの。ある日いきなり倒れて、それからどんどんからだが動かなくなって、最後はベッドから起き上がれなくなった。……死んだあと、気付いたらこのピアノのそばにいたの。ピアノはぜんぜん知らない家にあって、ぜんぜん知らない子が弾いてた。あたしの家にあるはずのピアノが何でって思って、思いっきり弾くのをじゃましてやったわ。そうするとピアノは中古屋に引き取られてまだ別の人に売られていった。行った先でまたじゃまして。そのくり返し』

 そのあとの言葉を、どちらも続けられなかった。

 売らない約束だったピアノが何故中古で販売され美咲の家にきたのか。理由とか事情とか、子どもの二人にはわからない。けれど果たされなかった約束の悲しさは、美咲にも理解できた。


 でもそれとこれとは話は別。美咲だって、このピアノを弾かせてもらえなければ弾けなくなってしまう。

「ん、ぎ、ぎ、ぎ」

 ヨーコが載っておそろしく重くなったふたを、美咲は懸命に押し上げた。触れられないヨーコの体が、何故こうも重いのか不思議でならない。仁王立ちして腕を組むヨーコがふふんと笑う。それがまた腹ただしい。

 指がはさまれないように気を付けながら開けるから、ふたに甘くかけた指が滑って、大きな音を立ててふたが閉まった。派手な音を聞きつけてお母さんがリビングに飛び込んできた。

「いいかげんにしなさい! そんなふうに乱暴に扱うならもうピアノは返します」

「らんぼうにしてるんじゃないもん! ヨーコがじゃましてるんだもん!」

「お母さん、うそをつく子は嫌いです」

 お母さんにはヨーコが見えないし、美咲が邪魔されているところを見てないから信じてくれないのだ。くやしくて涙がにじむ。するとヨーコが何を思ったのか、椅子に座ってふたを開け、ピアノを弾き始めた。

 誰もピアノに触ってないのに、鍵盤が沈んで音色を奏で出すと、お母さんは目をぱちくりさせてピアノのほうを向く。

「え? 何? 自動ピアノだったの?」

「違うよ。ヨーコだよ。ヨーコが弾いてるんだよ」

 これでお母さんも、ヨーコのことを信じてくれる。美咲は嬉しくなって、お母さんの服の裾を引っ張った。弾き終わると、ヨーコはいつもようにふたを閉める。

 ばたーん!

 お母さんは、しばらく動かなかった。

 そして、動いたと思った途端、ものすごく大きな悲鳴を上げる。

「きゃあぁあぁぁぁぁ──!」

 息を吐き切るように悲鳴を上げ終えると、いきなり走ってリビングにある電話に取り付くと、電話番号を書き込んだ帳面をめくって電話をかける。美咲にはお母さんが何をしようとしてるのかわからなくて、ただおろおろとお母さんがすることを見守っていた。

 お母さんは人差し指で電話の乗った台を叩きながらつながるのを待って、相手が出た途端、電話口に怒鳴った。

「あのピアノは一体何なんですか! あんな気味悪いピアノ、今すぐ引き取ってください!」


 電話のあとしばらくしてピアノの中古屋の人がやってきた。白髪混じりの男の人はお母さんにへこへこと頭をさげる。お母さんはくどくどと、さっきのことや美咲がさんざん言ってもわかってくれなかったことまで並べ立てた。

「すみません。事情はわかりましたので引き取らせていただいて代わりのピアノを持ってきます。ですが代わりのピアノをすぐに用意できないですし、今すぐってことになると配送の手配ができないので、えー、明日以降にしていただけないでしょうか?」

「何言ってるんですか! こんな気味の悪いピアノと同じ家の中にいるなんて一秒だって耐えられないわ!」

 事実お母さんは業者の人が来るまで美咲を連れて家の外に出ていた。ずっと信じてもらいたがっていた美咲だったけど、お母さんの過剰な反応にあきれてしまう。

 リビングに入ると、お母さんはピアノからできるだけ距離をとりたがった。部屋の角からピアノに近付いくおじさんに耳障りな高音の声を飛ばす。

「ともかくすぐ引き取っていってください! 代わりのピアノなんていつでもいいです。一刻も早く持って帰って!」

 おじさんはお母さんに断って携帯で電話をはじめた。電話の向こうのひとにもへこへこ頭を下げる。

「どうも、お世話になってます。あの、急な依頼なんですが、今すぐ配送頼めませんかね。アップライトピアノ一台なんですが。……はあ、やっぱり。そこを何とかお願いできませんか」

 腕を組んでイライラ電話が終わるのを待っていたお母さんは、玄関のチャイムが鳴ったのでピアノと業者のおじさんを気にしながらリビングから出ていく。

 お母さんが玄関で近所のおばさんと話を始めると、おじさんの電話は終わって、携帯電話を切ってポケットに閉まった。

 玄関の方向を気にしつつ、おじさんはピアノを調べはじめる。ヨーコはおじさんがふたを開けても邪魔しなかった。お母さんのときもそうだったけど、ヨーコは弾こうとするひとの邪魔しかしないらしい。

 おじさんは鍵盤をいくつか叩いてみたり天板を開けて中をのぞいてみたり、何かするたびしきりに首をひねる。

 困った顔をして美咲の方を向いた。

「ちょっと弾いてみてもらっていいかな?」

「いいけど……ヨーコはほかのひとが見てるところじゃ邪魔してこないよ?」

「……ヨーコ? 誰だい?」

「このピアノについてるゆーれい」

 おじさんは黙ってしまった。何て言葉を返したらいいのかわからないといった複雑な表情だ。それでまたピアノに向き直ってしまった。

 美咲はふと思いついて尋ねた。

「このピアノ、引き取られたあとどうなるの? またどこかに売られるの?」

 ヨーコが弾かせてくれないから交換してくれるというのはありがたかったけど、このピアノとヨーコの行方がちょっと気になった。おじさんは弱った顔をして美咲に言った。

「うーん。実はこのピアノは、どこのお宅に行っても気味が悪いとかふたが開かないとか言われてすぐ返品されるんだよね。こんなことがこう何回も続いちゃ、もう売ることはできないから処分するしかないかなぁ……いいピアノなんだけどね」

 おじさんの言葉にいやなものを感じて、美咲はおそるおそる聞いてみる。

「しょぶんって?」

「ええっと…壊して捨てるってことだよ」

 それを聞いたヨーコは、真っ青になっておじさんに叫んだ。

『あたしのピアノをこわすなんて許さないわよ!』

 でもおじさんには聞こえない。ヨーコはおじさんの頭をぽかぽかなぐったけど、おじさんは何も感じてないようだった。

『あたしのピアノを勝手に売るからいけないんじゃない! 返して! ピアノをパパとママのところに返して!』

 全然気付いてくれないおじさんに懸命に叫ぶヨーコが、美咲はかわいそうになってきた。

 姿が見えて声が聞こえるのは美咲だけ。他の誰もヨーコの気持ちに耳をかたむけない。

 大好きなピアノを弾けなくなって死んでしまったヨーコ。パパとママにお願いしたはずの約束は破られ、ひとりぼっちでこのピアノを守りつづけてきた。

 いつからそうやってピアノにしがみついてきたの?

 美咲だってピアノが大好きだ。でもお父さんお母さんとはなれて、一人ピアノと一緒にいるなんて耐えられないと思う。

 美咲は幸せだ。

 お父さんとお母さんがそばにいて、他に欲しいものを我慢して一生懸命お願いして大変だったけど、ピアノを買ってもらうことができた。

 でもヨーコは……

 お母さんがリビングに戻ってくる。

 美咲は決心してこぶしをぎゅっとにぎり、入ってくるお母さんの脇をすりぬけてリビングを飛び出した。二階の自分の部屋に戻って画用紙を引っ張り出し、一度は鉛筆を握ったけれど思い直して引出しの奥にしまいこんだマジックペンにかえる。太く書けるように先っぽをかたむけ、はみだしそうなくらい大きな字を書いた。それをつかんでまた駆け出す。

 階段のところまでリビングの話し声が聞こえてきた。

「わかりました。明日の午前十時ですね?」

「そういうことでよろしくお願いします。代わりのピアノは手ごろなものがみつかり次第ご連絡するということで」

 リビングからおじさんが出てくる。

「待って!」

 美咲はおじさんとお母さんを押し戻しピアノの前に引っ張っていくと、楽譜置きにたたきつけるように画用紙を置く。

 ヨーコが目を見開いた。

 画用紙には、ヨーコのピアノ、と書かれている。

「ヨーコ、わかったわよ! このピアノはヨーコのものよ! だからお願い、わたしにも弾かせて!」

 ヨーコはお母さんに信じてもらえない美咲のために、お母さんの目の前でピアノを弾いてみせてくれた。この間も、泣いていた美咲にピアノを弾かせてくれた。

 だからこのピアノはヨーコのものってことでいいよ。そのかわり貸してくれるくらい、いいよね?

「このピアノが弾ければいいんでしょ!? だからお願い! しょぶんしないで!」

 美咲はふたを開けて弾きだした。ひとがいるせいだったかもしれないけど、ヨーコは邪魔してこなかった。

 美咲が何をしているのかよくわからないのか、お母さんとおじさんは首をかしげて美咲のすることを見ていた。


 その後、帰ってきたお父さんもいっしょに話し合って、怖がるお母さんを説得して、ピアノはこのままにすることになった。


 遊びにきた友達の一人が、ピアノのふたに張られた小さなネームシールをみつけた。

「何これ? “ヨーコちゃんのピアノ”?」

 他の友達も集って不思議そうに見入る。

 美咲はみんなのうしろで、ちょっとだけさみしそうに笑った。

 話し合いだの何だのとばたばたしているうちに、ヨーコの姿はなくなっていた。成仏したのか、美咲に見えなくなっただけなのか。

 邪魔をされることもなくなったけど、我が家ではあれ以来ずっとこのピアノをヨーコのピアノと呼んでいる。画用紙からネームシールに変わったのは、お母さんが見栄えを気にして取り替えたからだった。

 美咲は話し合いのとき、ヨーコの望むようにパパとママのところに返してあげてほしいと言った。けれどこれは持ち主から依頼されて引き取ったものだから、持ち主に手離さなくてはならない事情があったのだろうと、中古屋のおじさんは教えてくれた。

 ──だから、ピアノが大好きな君が大事に使ってくれるのが一番だよ。

 ヨーコに尋ねることはもうできないから、おじさんの言葉を信じたいと思う。

「ねぇ、どうして?」

 もう一度聞いてきた友達たちに、美咲はヨーコのことをなつかしく思いながら説明した。

「このピアノの本当の持ち主の名前だよ。このピアノを弾くときはね、貸してくださいってお願いしてから弾くの。そうするとね、ちょっとだけうまく弾くことができるんだ」



おしまい

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― 新着の感想 ―
[一言] なんか、涙が出てきちゃって。 絵本にしてたくさんの人に読んでもらいたい。 素敵なお話ありがとうございました。
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